時代ごとの表現――ラブひなとけいおん!
漫画作品のラブひなと、アニメ版のけいおん! のネタバレ注意!
発表された時代の違う二つの作品について論じていきたい。
まず、ラブひなの主人公の男子浪人生・浦島景太郎が管理人として暮らしていくことになる女子寮のひなた荘は温泉付きの珍しい物件である。
この温泉はキャラクターだけでなく読者にとっても癒しの象徴になっているものと思われる。これはあえて語る必要のあることではないかもしれないが、温泉につかれば人は癒されるというわけで、直接的に癒しを描いていると言える。
ある種桃源郷のような、温泉付きの素敵な寮で女の子に囲まれつつ癒され、その結果成功していくという物語である。
観客が癒されるという意味では、カタルシスがあれば癒されるわけではあるが、ここで語っているのは狭義の、内容自体が癒される系統の物語ということになる。
次に、けいおん! の主な舞台である桜高軽音部のある桜が丘高校は、校舎自体はヴォーリズ建築の白亜の殿堂・豊郷小学校旧校舎群をモデルにしていることから素敵ではあるが、特に――温泉のような――癒しの象徴があるわけではない。
しかしけいおん! の少なくない視聴者が癒されているであろうことは想像できる。私もその癒された一人だ。その上、桜高軽音部に対して桃源郷のようなイメージを持っているのではないか? ……物質的な癒しの象徴はないにも関わらず。
では、なぜ癒され、そうイメージするのだろうか?
それは、キャラクター間の人間関係がゆるやかふんわり楽しく一種美しくすらあるからではないだろうか。
癒しの象徴はないにせよ、癒される空間というものが存在しており、それはキャラクターたちの人間関係から生まれているのでは? また、ひいては人間関係を生み出すキャラクターそれぞれの造形からも来ているのでは? ということだ。
ジャンルや表現の違いはあれど、本質的にはラブひなと同じような、癒しの空間で過ごした結果成功するという物語構造になっているように見受けられる。
主人公の平沢唯はゆるふわな日常を送りながら、軽音部の文化祭での発表を成功させるという成功体験を積む。
だが唯自身は癒す必要のある状態にあるわけではない。前述の浦島景太郎が大学受験で二浪もしているのに対して、平沢唯は大きな不幸を持っているわけではない。だから、癒される空間で過ごしはするのだが、そこまで大きく癒されているというわけではない。
これはけいおん! という物語が、「幸せなキャラクターたちを眺める」物語にもされているが故ではないか。
癒されるべきキャラクターを主人公にした場合、その内包する悲劇性が、観客に対してストレスを与える。比較的ドラマチックな作品(けいおんと比較するとラブひなはドラマチックである)ならばそれでいいし、そうしたほうがいいのだが、日常系では足かせだ。日常系では、ゆるやかふんわり幸せなキャラクターを主人公に据えるのが一つの解答である、というわけだ。
そしてけいおんの視聴者が癒されているであろうことも先に述べたとおりである。つまり、けいおんは、主人公が癒されるのではなく観客が癒される方向へ特化している物語になっているのである。
ラブひなのころと比べて、さらにというか、ストレスや貧困、格差などが大きくなり広がった社会だったからこそ、現実社会でただでさえ苦しく、ストレスを感じているのに、創作の中でまでストレスを感じたくない、という視聴者の思いもあったのではないか。
と言っても、どちらが優れているという話ではない。
この二つの作品は、同じような要素を、時代に合わせて違う物語構造で観客に届けているという話である。
けいおん! の方が特化していると聞くと、こちらの方が優れているように聞こえるかもしれないが、異なる時代を生きているそれぞれの観客に合わせて、それぞれの作品が別々に成立しているというだけのことだ。
そもそも、ラブひなの連載された時代にけいおん! のような企画が果たして通ったのか、通ったとして売れたかについては疑問が残る。
先進的すぎると観客が付いていけなくなってしまうものだ。
……しかし、だからと言って、この批評ではまだ、時代のとらえ方を説明するには至れない。
それがもしできたらヒットする作品を次々に送り出せることになる。
そんなことはまだまだ難しいだろう。
時代をとらえた大ヒット作品たち、そしてその作者たちに敬意を表して。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!
有益な創作論とは――キーワードは“自分自身”
創作論は、それを語る人にとってできて当然のことは軽視されている場合があって、そのせいでほとんど述べられていない重要な何かがある場合がある。これはプロの創作論の本でもそうである。
例えば、「キャラ設定を作る時に詳細な履歴書のようなものをきっちり作れ」と――履歴書の中身はそれぞれ多少違えども――様々な創作論においてよく言われる。
だが、それはあくまで、「面白い」設定を作るという大前提の下に行われるべきことで、単純作業のように穴埋めをして詳細な履歴書を作っても、娯楽としての質は上がらない。「面白さ」という大前提は、これ以外のすべてにも当てはまることなのだが、そう書いていない創作論は多い。
他に、キャラ設定と双璧をなす重要な創作論としては、ストーリーがある。
起承転結、序破急、ヒーローズ・ジャーニーなど、型になる創作論は数多くあるが、それらはすべて、面白いストーリーを作ろうという意識の下で活用されないと、単なるやけっぱちの空欄埋めに終始し、どうでもいい、類型的なだけのくだらないストーリーが生産されてしまう。
娯楽小説を書くのだから、「面白いことが大前提」なのは当然ではあるし、プロとして活躍できている方がそれをわざわざ意識しなくてもできるというのも想像に難くない。 しかしいまいち面白くない小説を書いてしまうアマチュアは、それを大前提にし忘れている気がしてならない。
ここからは、どうしたら創作論を役立てていけるのか、それを具体的に述べていこう。
面白さを意識することが大切なのは、すでに述べた。
しかし、例えば、作品作りにおいて全体として面白さの方向性を守ることが重要なのに対して、細部に別々の面白さばかりを配置すると、てんでんバラバラな面白さをごちゃまぜにした意味不明な作品が出来上がってしまう。これは「面白さ最優先主義」ともいえる創作論の穴である。
だが、誰しもがそんな間違った解釈をしてしまうわけでもない。
つまり、ある有益だとされる創作論が、大勢にとっては有益だとしても、一部の人にとっては解釈の問題で役に立たなかったり、それどころか逆に毒になったりするわけである。問題は、自分が大勢なのか、一部なのかは、すぐにはわからないということだ。
では、いったい、どうしたらいいのか?
それは自分自身の創作における、取捨選択と、創造である。
有益なのか、無意味なのか、毒なのかを判断するには、作品を作ってみないとわからない。だから「創作における」と書いた。
そしてまず、最初に述べた個々人におけるすでにできていることは、創作論として取り入れる必要がない。また、毒になるようなものは、取り入れてはいけない。これが取捨選択である。
次に、創造であるが、これは自ら創作論を作り出す行為を指す。ゼロから作れとは言わない。他者の創作論を実践するうちに、自分にとってはこうした方があっているという微細な変化や、あるいは創作論を基にするのではなく、何らかの創作作品群を分析し、自ら発見する法則や、面白いポイントなどを抽象度を上げてとらえ、創作論と化すのだ。
重要なのは、自分の責任において、自分で試行錯誤しながら、自分に合った創作論を自分で作り上げていくことだ。
なぜそんな一見面倒なことを勧めるのか?
それは、この世界に、自分にとって最良の創作論など存在しないからである――自分で作り上げた場合を除いて。
残酷なようだが、奇跡のような、これさえ守ればデビューできるとか、ヒットできるとか、そういった類の創作論は存在しない。それを謳う創作論は数多くあれど、それは商売用のキャッチ・コピーに過ぎない。
なぜなら、世にあふれた創作論は、あなたのために書かれた創作論ではないし、書いたのもただの人間で、神ではないからだ。
それに近いものがもし存在するとしても、あなたが血反吐を吐いてたどり着く将来の自分自身の創作論以外にはないのである。
この創作論も含めて、取捨選択し、創造し、力強く創作の道を歩いて行ってほしい。
私はそうするつもりなので、もしあなたがそうするのであれば、どこかで会うこともあるかもしれない。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
意味のある批判から生まれる可能性
意味のある批判と無意味な批判について、以前どこかで書いたかもしれないが、ここにも書いておく。
いきなりだが、この世界には不完全性定理というものがある。ざっくりいうと、完全なものは存在しない、というものである。
どんなものでも必ず不完全なところがあるということは、その部分に対して批判が必ずできるということでもある。
このことから、「批判は誰でもできる」だから「批判するのは無意味」というような意見も出てくる。これらには一面の真実があるが、後者については、反論を加えたい。
この「批判するのは無意味」という言説だが、こう言われてしまうくらい無意味な批判が世の中にはあふれているのだろう。その一面では真実である。揚げ足取り、文脈無視、行を読む前に行間を読んだ上での批判、などがそうである。または、このブログで行っているような創作に対する批判(批評)においては、力量が足らないがゆえに的外れな批判を書いてしまう方もいるかもしれない。
しかし、逆に言えば、そうしたものでなければ――力量が足りていて揚げ足をとらず文脈に従い行も行間も読んでいればetc――、有益な、意味のある批判となることもあるということだ。私としては、そうしたものを目指しているところでもある。
つまり、「批判は誰でもできる」という視座に立った上で、あえて批判をするのであれば、「ではどのような批判をしたら、星の数ほどある批判の中で、抜きんでた、優れた、有益な、意味のある批判ができるのか?」という視座にステップアップできるということになる。
こうした視座に立たない限り、批判をするだけでその批判の対象の上に立ったと勘違いして、実際には足元にも及んでいないにもかかわらず、悦に浸ったり、馬鹿にしたり、快感を覚えたりして、批判中毒になっていく……という人間もいるだろう。
また、有意味・無意味問わず、批判をするからには自らはその批判されるような言動をしない、という消極的な行動が、誠実ならば大体の場合あるはずである。
もっとも、無意味な批判の中毒者は、誠実ではないはずで、矛盾だらけの言動をとることだろうが。
ではそういった視座に立った上で意味のある批判をする方の場合は? というと、矛盾は少なく、消極的な行動はもちろんのこと、さらなる行動に移る可能性が比較的高い。
それは何かというと、批判という意見を現実にするための行動である。もっとわかりやすく言うと、批判するからには理想通りになっていない現実があるわけで、その現実を変えていこうという行動のことである。
創作に対する批判なら、自分が作品を作ることで理想を体現するのでもよし。社会や政治への批判なら、自分が政治家に陳情したり、あるいは政治家そのものを目指したりといったようなことである。
このように、意味のある批判は存在し、その批判からは意味のある行動も生まれてくるものなのである。
だから、批判するのは無意味、ではないのである。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
田尻智と間違われて――夢と冒険と! ポケットモンスターの世界へ! レッツ ゴー!
今回は、思い出話を話そう。
なお、記憶の曖昧な部分を無理矢理補足したり、推測も混じったりしているため、その結果として少々話を盛ってしまっている部分があるかもしれないが、故意ではない。そのことを、あらかじめ断らさせていただく。
子供のころ、私はゲーム機を買ってもらうのが遅かったが、興味はあった。そして目に悪いという理由で、特にゲームボーイを買ってもらうのはさらに遅かった。ではそんな私がハマっていたものはというと、読書や100円で5枚くらい出てくるカードダス、そしてガチャポンだった。
そんなガチャポンを見ていて閃いたアイデアがある。
当時の私はドラクエすら持っていなかったが、たくさんのモンスターが出てくるということは知っていた。そんな中途半端な知識から導き出されたのは、「ガチャポンのカプセルみたいなものにモンスターを入れておくテレビゲームで、ゲーム内でカプセルを複数一度に持って歩けて(小さくなるのだからそうしなければ意味がない)、交換もできる」というものだ。交換については、コンピューターなんだからデータの通信くらいできるに決まってる、という決めつけの裏付けもあった。
私は味方が欲しかったのだ。友達で、仲間で、脅威と戦ってくれる、忠実な味方が。そんな思いが、「カプセルモンスター」と名付けたこのゲームのアイデアを生んだのだろう。
なぜガチャポンモンスターではないのか?
それは、すでに商品に使われている名称を使うことはできないはずだと知っていたからだ。
このアイデアを開陳しても、周囲の反応はおよそ冷ややかなものだった。
いわく、「売れるわけない」「できるわけない」。ひどいのになると、「ウルトラマンのカプセル怪獣のパクリ?」「メガテンのパクリか」などというものもあった。彼らはアイデアというものを理解していない。相手は一般人だからしかたがないのだが、言われるたびに私は傷つき、落ち込んだ。ちなみに、当時の私はカプセル怪獣もメガテンも知らなかった。ご愛敬。
さて、かの有名で私も敬愛している「ポケットモンスター」の制作裏話に触れたことのある人なら、偶然ではあるが、アイデア段階のポケットモンスターと同じ名称、同じアイデアであることに気が付くだろう。そして、私がこのアイデアを持ったのは――すでに開発中ではあったのだろうが――ポケットモンスターの発売前、発表前だった。
そう、このアイデアを持ったことで、私はあの田尻さんと間違われたことがあるのだ。つまり、「ポケモンを作った人」に……だ。
田尻さんが大好きらしい「都市伝説」に近いものに、なっていたのかもしれない。
間の悪いことに、小学校の近くに「たじりばし」というとても小さな橋もあった。名前を、そこからとったのだろうと思われたかもしれない。
といっても、大人が聞けば「ありえない」とすぐにわかるもので、たとえ都市伝説好きでも聴けば一笑にふすような話だが。
なぜか?
それは先ほど述べた通り、このアイデアを持っていたのが、ただの子供だったからだ。
子供のたわいない噂だから成立した話で、もう少し年齢が上がっていれば「おかしい」とすぐに気が付くのかもしれないが、私の通っていた地方の小学校ではそこそこ有名な話になっていたのではないかと思っている(確証はない)。
そんなあったらしい日々は、私に直接問われることで終わった、と思う。
つまり、ポケットモンスター発売後、流行後に「お前が田尻智なんだろ」とか、「お前がポケモンを作ったんだろ」みたいな――はっきりとは覚えていないが――そんな問いかけだ。
なお、そう問われたとき、いまだに私は、ポケットモンスターどころか、ゲームボーイも持っていなかった。
当時の私は子供ながらに、「これは重大な局面だ」「返事を間違えたら大変なことになる」と直感した。ひしひしと、伝わってくるのだ。ほとんど話したこともないような別のクラスの、記憶があいまいなのでひょっとしたら別の学年かもしれないやつが親しげに、尊敬の色を見せながら、「何もしていない私」に――話しかけてくるのだから。
私ははっきりと、「そんなわけないじゃん!」「俺はまだ小学生で、子供なんだよ!」「できるわけないじゃん!」などと答えたはずである。
非常にがっかりした顔をされたのを覚えている。
彼らも、子供でもできるんだ、ということを信じたかったのかもしれない。
そして、一つの夢が終わった。先を越されたのだ。先に発表・発売された以上、ほとんど同じような後追いを作っても、意味がない。
秘かに、「私のカプセルモンスター計画」は終了した。
そして時は流れ、ニンテンドウ64が発売され、初代のポケモンスタジアムが発売された。そのポケスタには、ゲームボーイのカートリッジをコントローラーのGBパックに挿すことで、ポケットモンスターがプレイできるという機能がついていた。ゲームボーイを未だ持っていなかった私には、これがポケットモンスターとの初の対面である。
……実際にプレイしてみて、「なるほど、これがプロの仕事か」「今の僕にはできない、できそうもない」「知識が足らない」「誰かに不足分を助けてもらえば、できたかも」――などと思ったことを覚えている。
その後、ポケモンに勝つ! という目標を立て、ある日本文化を扱ったゲームを考えたが、これは私以外の手で世に出てしまった。任せたのではない。偶然か、盗用かは知らないが、私は関わっていない。愚かにも大勢の人前でアイデアを披露したことがあったので、それが原因ではないかと思っているが……、定かではない。
今一番やりたいことは、物語を紡ぐことで、特に小説(ラノベ)だ。だから、ゲームで戦うかどうかはわからない。
それでも、心のどこかで、ポケモンに、田尻智に勝つ! という目標が、いまだにくすぶっているような気がしてならない。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
贋作地獄を超えるとき――面白さの多様性
名作に衝撃を受けたあまり名作の劣化コピー……贋作を作り続ける地獄にハマった場合、そこから抜け出すには本物を超えることが必要だ。
若いころ、「イリヤの空、UFOの夏」という名作にドはまりした結果、それと同じ味の作品を探し求めた時期がある。最も近かったのは同じ作者による「猫の地球儀」だっただろうか。
問題は、その名作と違う味の作品に出合うと、違うという理由でつまらないと感じることがあったのだろうということだ。同じ味を期待しているというバイアスが、物語への味覚を鈍らせていたのだ。つまり、ライトノベルとしては重厚で味わい深い文体の「秋山節(注・この作品の作者は秋山瑞人)」に惚れこむあまり、ライトノベルらしい短い文章の連続の文体などを軽視していた。
しかし面白さを感じる味覚は、とある名作と同じ方向性だけをはかるためのものではない。個々の作品ごとに異なる方向性の面白さの味がある。もちろん、それをわかっていなかったわけではなかった。だが、完全にその理想を体現していたわけでもなかった。例えば「ゼロの使い魔」である。今読めば傑作だと認識するし、売れに売れている……それだけの評価を得ている作品だ。しかし当時の私は「そこそこ面白い」としか思わなかった。
好みが変わったと言えばそれまでだが、当人である私にはそれだけではないと言い切れる実感がある。つまり「ゼロの使い魔」などの短文を連発する文体の味を十分に味わえていなかった実感がある。
重要なのは、個々の作品の別々の面白さという味をそれぞれ十分に味わうことである。具体的には、先入観を捨て、素直に読むことが大切となる。あれと似てるとか、これと同じような感動を期待するとかは、いったん捨てておきたい。
むろん完璧にそれを実践することが絶対的に正しいわけではない。例えばパロディ的な作品を見たりすれば、どうしたって別の、パロディ元の作品を想起するが、それは間違っているわけではない。含まれている以上、その想起もその作品の味わいの中のものである。
こうした名作の衝撃から同じ味を求め続けてしまう病いは、創作活動にも悪影響を与えることがある。
それが最初に語った、贋作の量産という悪夢である。同じ味を求めるとはいえ、全く同じものを作るわけにはいかず、パクリをするわけにもいかないからだ。これが本当に料理だったら、同じ名店の同じメニューを食べればいいだけなのだが、悲しいかな、読書の場合、それはあまり通用しない。内容を覚えているからだ。この辺りは読書家ならわかることだろう。それがわかっているからこそ、自分でも書くのだが、贋作を作っている間は本物と同じ味になることはない。この場合、まったく同じ文章を書くこと……つまり「写経」をしても意味がないからだ。
どうしてもこの病いが治癒しないのであれば、その名作の……本物の味を自分にとって超える方向に舵をきれば良い。そうすると、結局同じ味ではなくなるのだが、自分にとってもっとおいしい味になっているから、満足するというわけだ。
そこからオリジナリティも生まれるだろう。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
目をそらしている一面――MUSICA! 体験α版感想
PCゲームブランド・OVERDRIVEの完全新作であるところの「MUSICA!」の体験α版……つまり普通の体験版よりもさらに体験用、全体の雰囲気や作りたいもの、目指している方向などを知らせるためのものをプレイしたので、その感想を、極力ネタバレしないように書いていきたい。
それでも問題がある場合はお知らせください。対処いたします。
ちなみに、5~6年前に買ったはずのDELLのinspiron15インチで無事動作しています。
システム面や一部の読みにくい点、および誤字脱字等は、ここでは触れない。私が思いついた前者はすでに挙げられていることだし、後者は、体験α版なのだからどうでもいい。
結論としては最低でも本編とアルバムCDがリターンに入っている支援をしたくなった、というところである。
まず、文章表現はさすがの一言(私が拙いだけかもしれないが……)。
ただ、比較的難しい漢字を使われる方のようなので、フリガナがあると嬉しいかもしれない。もっとも、ボイスでフォローできるならそれでもいいし、もしフリガナを入れるためのプログラムの改善が大変なようならスルーしていただいてかまわない感想である。
また疑問に感じたのは、なぜクラスメイトのキャラクターの紹介を、地の文で簡単に済ませてしまうのか、という点だ。エピソードで語らないのはなぜだろうか。体験α版だから、概要をつかんでもらうためにそうしたのだろうか。
もっとも、簡単に済ませているようでいて十分面白い文章なのだが。面白いは正義だから関係ないのかな。
絵は線画なのに色っぽい。色がついた製品版などの絵に期待したい。
定時制を扱うと、いろんな可愛い服の女子(ヒロイン)を出せるという利点がある。
普通の……全日制の学校を扱うと、制服がたいていあるわけだが、ゲームデザインという観点から見ると、個性豊かな、多様なキャラクターが、みんな同じような服を着なければならないのは、キャラの魅力を誇張するにあたっては結構厳しいハンデだ。しかし定時制の場合、制服を着なくてもいいので、キャラのイメージのための服を着せることができるというわけだ。
素晴らしい。
主人公が一人称で語るゲームであるわけだが、素晴らしい地の文で語らないと、このライターさんの魅力を最大限生かせない。しかし一人称である以上は主人公の実力以上の文章を出せないとも言える(無視することもあるが)。例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」の主人公のキョンは、理屈っぽいなどのその性格からして違和感がなかったわけだが、この作品もその問題をキャラ設定の点から鮮やかにクリアーしている。お見事。
終わりの方の意外な展開は、Twitter上の無数の感想を見ているのだから覚悟をしていたはずなのに、それでも意外で、目の前が真っ白になるかと思った。
ところで意外と感じるということは、それまでの予想を裏切るものであり、つまり予想した部分に期待を寄せて、予想した部分に目を向けていたからそう感じるわけだけれども、そうしているということは、他方、目をそらしている別の面があるということでもある。そこに気が付かせたかったのではないか。
それこそが本作全体のテーマであり、描きたいことなのかもしれない、と勝手な予想をして、結びに代えさせていただく。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
俺の感想、公式に届け!
少女と少女らしさ――アイドルソングとアニメソングを聴き比べて
アイドルソング――AKB48や欅坂46――を聴いても少女らしさをあまり感じず、声優が少女を演じて歌うアニメソングやゲームソングの方が、よほど少女らしさを感じる。
これはなぜなのか、考察してみた。
歌い方、目指している方向の違いが原因だろう。もちろん、当事者ではないので推測になってしまうが。
まず、私が聞いたアイドルソングは楽曲において少女らしさを打ち出しているのではないのだろう。一人称が中性的な「僕」だったり、反骨精神を歌っていたりするからだ。
一方、そういったアニメ・ゲームソングは少女らしさを誇張しているし、純化している。だから、そう考えてみると、本物の少女が歌っているというだけでは、少女らしさの点で敵わないのだ。
特に、AKB48や欅坂46は本物の少女が少女以外のところを目指しているのだろうから、なおさらのことだ。
考えてみれば、男性だからと言って男らしいとは限らない。宝塚の男役や女性声優がアニメで演じた少年の方が、よほど男らしいことがあることに気が付く。それと同じことではないか。
この誇張や純化によってもたらされるものが、かの宮崎駿が嫌う演技性なのかもしれない。私は好きだがね。
歌唱者が本物の少女かどうかではなく、歌唱者が少女らしく歌うかどうかが重要なポイントなのだ。
つまり、歌唱者の元々持っている属性ではなく、歌唱者の歌唱した属性の方が聴衆により届きやすい、ということだ。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
蛇足:
ちなみに私の好きな少女らしいアニメ・ゲームソングは、DEARDROPSのkaleidoscopeや、斎藤千和の演じた各種の歌、そしてなによりけいおん! の楽曲群ですね。
サクラ大戦の歌はアニメ・ゲームでありながら少女らしさを目指していない楽曲が多い気がしますね。舞台女優のキャラクターを演じているからでしょうか。好きなんですけどね。
さらに言うと、AKB48や欅坂46も好きです。上の記事で誤解されたらごめんなさい。
むろん曲によって好き嫌いは出てきますが。