有益な創作論とは――キーワードは“自分自身”
創作論は、それを語る人にとってできて当然のことは軽視されている場合があって、そのせいでほとんど述べられていない重要な何かがある場合がある。これはプロの創作論の本でもそうである。
例えば、「キャラ設定を作る時に詳細な履歴書のようなものをきっちり作れ」と――履歴書の中身はそれぞれ多少違えども――様々な創作論においてよく言われる。
だが、それはあくまで、「面白い」設定を作るという大前提の下に行われるべきことで、単純作業のように穴埋めをして詳細な履歴書を作っても、娯楽としての質は上がらない。「面白さ」という大前提は、これ以外のすべてにも当てはまることなのだが、そう書いていない創作論は多い。
他に、キャラ設定と双璧をなす重要な創作論としては、ストーリーがある。
起承転結、序破急、ヒーローズ・ジャーニーなど、型になる創作論は数多くあるが、それらはすべて、面白いストーリーを作ろうという意識の下で活用されないと、単なるやけっぱちの空欄埋めに終始し、どうでもいい、類型的なだけのくだらないストーリーが生産されてしまう。
娯楽小説を書くのだから、「面白いことが大前提」なのは当然ではあるし、プロとして活躍できている方がそれをわざわざ意識しなくてもできるというのも想像に難くない。 しかしいまいち面白くない小説を書いてしまうアマチュアは、それを大前提にし忘れている気がしてならない。
ここからは、どうしたら創作論を役立てていけるのか、それを具体的に述べていこう。
面白さを意識することが大切なのは、すでに述べた。
しかし、例えば、作品作りにおいて全体として面白さの方向性を守ることが重要なのに対して、細部に別々の面白さばかりを配置すると、てんでんバラバラな面白さをごちゃまぜにした意味不明な作品が出来上がってしまう。これは「面白さ最優先主義」ともいえる創作論の穴である。
だが、誰しもがそんな間違った解釈をしてしまうわけでもない。
つまり、ある有益だとされる創作論が、大勢にとっては有益だとしても、一部の人にとっては解釈の問題で役に立たなかったり、それどころか逆に毒になったりするわけである。問題は、自分が大勢なのか、一部なのかは、すぐにはわからないということだ。
では、いったい、どうしたらいいのか?
それは自分自身の創作における、取捨選択と、創造である。
有益なのか、無意味なのか、毒なのかを判断するには、作品を作ってみないとわからない。だから「創作における」と書いた。
そしてまず、最初に述べた個々人におけるすでにできていることは、創作論として取り入れる必要がない。また、毒になるようなものは、取り入れてはいけない。これが取捨選択である。
次に、創造であるが、これは自ら創作論を作り出す行為を指す。ゼロから作れとは言わない。他者の創作論を実践するうちに、自分にとってはこうした方があっているという微細な変化や、あるいは創作論を基にするのではなく、何らかの創作作品群を分析し、自ら発見する法則や、面白いポイントなどを抽象度を上げてとらえ、創作論と化すのだ。
重要なのは、自分の責任において、自分で試行錯誤しながら、自分に合った創作論を自分で作り上げていくことだ。
なぜそんな一見面倒なことを勧めるのか?
それは、この世界に、自分にとって最良の創作論など存在しないからである――自分で作り上げた場合を除いて。
残酷なようだが、奇跡のような、これさえ守ればデビューできるとか、ヒットできるとか、そういった類の創作論は存在しない。それを謳う創作論は数多くあれど、それは商売用のキャッチ・コピーに過ぎない。
なぜなら、世にあふれた創作論は、あなたのために書かれた創作論ではないし、書いたのもただの人間で、神ではないからだ。
それに近いものがもし存在するとしても、あなたが血反吐を吐いてたどり着く将来の自分自身の創作論以外にはないのである。
この創作論も含めて、取捨選択し、創造し、力強く創作の道を歩いて行ってほしい。
私はそうするつもりなので、もしあなたがそうするのであれば、どこかで会うこともあるかもしれない。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。