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意味のある批判から生まれる可能性

 意味のある批判と無意味な批判について、以前どこかで書いたかもしれないが、ここにも書いておく。

 

 いきなりだが、この世界には不完全性定理というものがある。ざっくりいうと、完全なものは存在しない、というものである。

 どんなものでも必ず不完全なところがあるということは、その部分に対して批判が必ずできるということでもある。

 このことから、「批判は誰でもできる」だから「批判するのは無意味」というような意見も出てくる。これらには一面の真実があるが、後者については、反論を加えたい。

 

 この「批判するのは無意味」という言説だが、こう言われてしまうくらい無意味な批判が世の中にはあふれているのだろう。その一面では真実である。揚げ足取り、文脈無視、行を読む前に行間を読んだ上での批判、などがそうである。または、このブログで行っているような創作に対する批判(批評)においては、力量が足らないがゆえに的外れな批判を書いてしまう方もいるかもしれない。

 しかし、逆に言えば、そうしたものでなければ――力量が足りていて揚げ足をとらず文脈に従い行も行間も読んでいればetc――、有益な、意味のある批判となることもあるということだ。私としては、そうしたものを目指しているところでもある。

 つまり、「批判は誰でもできる」という視座に立った上で、あえて批判をするのであれば、「ではどのような批判をしたら、星の数ほどある批判の中で、抜きんでた、優れた、有益な、意味のある批判ができるのか?」という視座にステップアップできるということになる。

 こうした視座に立たない限り、批判をするだけでその批判の対象の上に立ったと勘違いして、実際には足元にも及んでいないにもかかわらず、悦に浸ったり、馬鹿にしたり、快感を覚えたりして、批判中毒になっていく……という人間もいるだろう。

 

 また、有意味・無意味問わず、批判をするからには自らはその批判されるような言動をしない、という消極的な行動が、誠実ならば大体の場合あるはずである。

 もっとも、無意味な批判の中毒者は、誠実ではないはずで、矛盾だらけの言動をとることだろうが。

 ではそういった視座に立った上で意味のある批判をする方の場合は? というと、矛盾は少なく、消極的な行動はもちろんのこと、さらなる行動に移る可能性が比較的高い。

 それは何かというと、批判という意見を現実にするための行動である。もっとわかりやすく言うと、批判するからには理想通りになっていない現実があるわけで、その現実を変えていこうという行動のことである。

 創作に対する批判なら、自分が作品を作ることで理想を体現するのでもよし。社会や政治への批判なら、自分が政治家に陳情したり、あるいは政治家そのものを目指したりといったようなことである。

 このように、意味のある批判は存在し、その批判からは意味のある行動も生まれてくるものなのである。

 だから、批判するのは無意味、ではないのである。

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。