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内省と共感と~ゲンロン戦記を読んで~

 読み終わってからだいぶ間が空いてしまったが、東浩紀氏の「ゲンロン戦記」を読んだ感想をアップロードしておく。

 本当は俺も戦っているときに同じ思いを抱いていた(特に初期に俺みたいなやつがもっといればなあと思っていた)等の感想もあったのだが、その戦いは世間的に言うオカルトに当たるものなので割愛した。書くと東氏に迷惑かと思ったので……。

 以下は他の感想や批評と同じく、元の本、つまり「ゲンロン戦記」を読み終えてから読むことをお勧めする。でないとよくわからないはずだ。

 それでは、どうぞ。

 

 

(ページ数は失念した)

 実際に足を運ぶ小説の取材には誤配と観光がつきものだ。

 自分の住んでいる街の取材をするのでなければ、たいていは東さんの言う「「村人」でも「よそもの」でもない第三のカテゴリ」としての「取材者」になる。もちろん観光客そのものではないので異なる部分はあるのだろうが、今回は共通点を述べていきたい。

 現地に行く取材の場合でも観光客と同じように目的地は決まっている。事前に調べておおよその登場する施設や場所を決めていかなければ、時間がいくらあっても足りないからだ。しかし、それでも東さんの言う誤配と観光に近いものがある。

 現地の自販機やベンチの位置など細部を把握したり、路傍の花や石を見たり、道行く人々の層を理解したり、思わぬ店が近くにあったり……なんでもいいが、そういった偶然の出会いが刺激となったりきっかけとなったりして、発想が膨らんでいく。つまり誤配的発想(ひらめき)が、物語に思わぬ深みを与えてくれるのだ。

 観光客とは価値を感じる基準が違うが、取材者としての作家も取材対象に何らかの価値(=魅力)を感じなければ物語には登場させない。

 これらの点で、小説の取材は誤配と観光に通ずるものがある。

 コロナ禍の現地に行かないネット越しの取材をしていて感じたが、経路検索やグーグルストリートビューで現地の様子はおおよそつかめるものの、実際に行った時と比べて情報の解像度が低い。特に偶然の出会い(=誤配)がない。自分で見ようとしたものしか見られないのだ。情報もリアルタイムではないことがある。最低限の情報は手に入るので現地に行く取材の代替にできなくはないが、あえて言えば行った場合の劣化コピーの代替情報しか得られない。

 はやくコロナ禍が終わって欲しいものだ。

 

P147

 日本語でも検索ワードがわからなければそのことについて検索して学ぶことはできないという体験をしている。それどころか最近のネットは無料の不確かな情報であふれているので、たとえ検索ワードがわかっても間違った方向へ誘導されることが多くある(フェイクニュース陰謀論ポストトゥルース等)。だから最低でもプロの書いた(当然有料の)活字の本を読むことや、できれば詳しい人に直接会って教えていただくことが求められる。そうやって基礎ができた後で応用としてネットを使った方が良い。生兵法は怪我の元。

 

 東さんと私の意見は似てきていると思っているが、それは考え方が近いということを意味せず、おそらく政治や経済、SNSなどの社会の状況が良くなさすぎるからではないか。アプローチは異なると思っている。彼はリベラルで、私は自分では保守だと思っているからである。とはいえ、リベラルについて全く詳しくないものの、自由も大切だなと思ってはいる。

 

P259

「彼らの「見たいもの」そのものをどう変えるか。それが啓蒙なのです。」俺がずっと追い求め、別の言葉で考えていたことの答えを見た気がした。とはいえ、東さんの目指すところ(反スケール)と俺の目指すところ(大ヒット=スケール)とが違うので、本当の意図とは違うかもしれないが。

 世の中では「オタク要素を突き詰めればオタクに受ける、日本の人口の1%にウケれば100万部だからオタク向けを目指せ、一般受けを目指すな、そんなものは存在しない」というような創作論が広く出回っている。私はこの創作論自体は間違っていないとは思っている。ただ、完全な創作論など存在しない。その上で、付け加えるべき文章がある。

「しかし日本の人口全てに読書習慣があるわけでもない。仮に人口の1%=100万部が目標ならば、せめて一般人でも読めるような作りになっていなければならない。でなければ前提を達成できない。例えば専門用語を説明もなしに多用すれば一般人には読めなくなってしまう。つまり内容はオタク向け、だが構造や文章が一般人でも読めるようになっていることが望ましい」という文章だ。

 流行を作るような大ヒット作品は、流れを変える以上は目新しいものを持ってきている。その目新しいものは、作品を作っているくらいの人には(少なくとも部分的には)既知だろうし、詳しいという意味でのオタクにとっても同様だろう。

 だが、一般人にとってそれはまさしく新しいもの=知らないものであることが多い。

 それでも読んでもらえるということは、上記の「構造や文章が一般人でも読める」ことの証左である。

 そして、本の言葉に戻るならば、「構造や文章が一般人でも読めるようになっていること=啓蒙を達成するための一つの条件」となるのではないか。

 実際、この「ゲンロン戦記」そのものが、一般人でも読めるようになっている。

 一般人の見たいものを変えるほどの技巧と内容を持った作品が、大ヒットを出せる作品なのだと信じている。

 

P261

「哲学者は産婆」という言葉が出てくる。この本を読んでいて、自分も同じだったと振り返ったりしたのは、間違った読み方ではなく、むしろ哲学の本を読んでいるなら自然な行いなのだなと安心した。

 もっとも、この本のまえがきで批評の本でも哲学の本でもないと記されているので、「一読者の私は哲学の本だと思った」というだけに過ぎない。

 それに、そもそも読書とは内省の作業でもあるので、同じだったと思うのはその範囲であるのかもしれない。

 だが、私としては「哲学をわかりやすく伝えるための自伝」という風に読めたので、哲学の本だと評した。

 

 

 個人的に言論の評価とは言論人の人生・生き方を評価することなのだと思っている。過去と現在の言葉を比べて同じかどうかを見ることではない。何故なら、優れた言論人は変化・成長が前提であるからだ。

 その上でその個人の人生としての一貫性を評価するならば、誠実かどうかが焦点となる。

 言葉が逐一同じであるかどうかではない。逐一同じであったなら、変化も成長もしていないことになってしまうからだ。

 インターネット上では、よくイデオロギー固執しているだけの人々が、思想家を「ブレブレの人」などというが、実際はそういう人々が「頑迷な人」なだけである。

 私はこの本を読んで、ようやく東さんが信頼に足る誠実な思想家だと思えた。だから、積読していた他の東さんの本も読みたくなり、引っ張り出してきて、次に読む棚に並べたのであった。