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キャラクターの超克――けいおん最終回を迎えて(1)

アニメ版けいおんのネタバレ注意!



けいおんは、確かに成長物語だった。


たとえ公式にそういうテーマはないと言われても、私にとっては確かに成長物語だった。ただしそれは人としての成長物語ではない。けいおんにおいて、人の成長物語はテーマではない。では、いったいどういう、何の成長物語なのか。それは画面を見れば自明である。
けいおんは「萌えキャラクターによる、萌えキャラクターとしての成長物語」なのだ。


もちろん、キャラクター自身に、メタ的な自覚、つまり「自分が萌えキャラクターである」という自覚があるわけではない。
彼女達は、萌えキャラクターである自分達を、普通だと思っているし、あの世界では、それが普通なのである。
だからこそ、彼女達が自然に成長するだけで「萌えキャラクターとしての成長物語」が成立できる。
私が今思いつく限りでは、ほかの作品では、たとえキャラクターが萌えキャラであっても、物語としては普通の成長物語などであることが多い。
萌えキャラクターが、しかし現実の人間の理想像を目指した成長をする。
そこに歪さが現れ、その歪さを呼んだ主要な異物、つまり萌え要素ばかりが目立ってしまう。特に、萌えを許容したことのない一般人に対して、萌えが自己主張してしまう。
そして萌え作品と呼ばれてしまうことが多い。
しかし、けいおんは一見、確かに萌え作品と同じ特徴を持つように見えるが、実際に視聴してみるとあまりの自然さに驚く。
萌え要素はある。しかし歪さが隠れていて、見えてこない。
見終わってから、現実と比較しながら思い出せば、確かに歪さを列挙することはできるのだが、作中ではそれほど不自然には見えない。


結論から言えば、けいおんは、萌え作品としての鉄則を守りながら、同時に、成長物語としての王道を見事に消化している。それはいったいどういうことなのか。
たとえば、主要人物の親が画面に出てこない。存在は示唆されているが、登場しない。これは萌えに限らず、ティーン向けの作品で踏襲されていることが多いやり方である。
もちろん親を一切登場させないと言うのは、物語の王道ではない。人間には必ず親がいて子供がいるものであって、その要素が欠けているとなると、それはもはや外道なのだ。しかし、けいおんのキャラクター達に、親がいないわけではない。前述のとおりで、音声や、画面に出てこないだけなのである。
普通の萌え作品では、ここまでで終わる。しかし、けいおんはそこから一歩進んでいる。
王道として機能するために「親」と言う役割を、細かく分裂させ、それぞれのキャラクターに振り割っているのである。親の役割が、親以外のキャラクターによって、消化されてしまっているのである。


たとえば憂は観てわかりやすく、家事をこなすなど、唯に対して、親のようなことをしている。
しかし、憂は唯の何かといわれれば、妹のはずだ。ほかのものには見えない。少なくとも母親にはならない。あくまで「できた妹」なのである。なぜなら、振り分けられた母親の役割よりも、妹としての役割が圧倒的に多いからである。
親のようなことをしていても、親だとは思われない。
そして、憂は、特に料理をする姿が描かれていた。これが主な親の役割の象徴になっていて、作中では一貫されている。
だからこそ、唯の成長は、風邪を引いた憂に対しておかゆを作ることで示されているのである。
また、その影響を引きずっているのか、律もまた、料理で成長を示している。


前述のように、憂以外のキャラクターにも、親と言う役割は分散されている。
けいおん部では、唯に対しては、律に父の役割、紬、澪に母の役割を感じ取ることができるし、母親の役割を一番多く処理した憂に対して、梓には父親の印象を受ける。けいおん部に秩序をもたらそうとしているからである(だが父親そのものではないので、けいおん部に完全な秩序をもたらすことはできない)。
役割の分散についてはこのくらいで例を挙げるのをやめておく。
まとめると、「ティーン、あるいはオタク向けの作品において、直接描写を避けるべき要素を、細かく分散し、それ以外の要素に振り分けることによって描写した」ということである。
だからこそ、全体としては、王道の要素を処理しきることが可能になる。
こうして、王道から外れつつあったオタク作品の中、王道に回帰することができたのである。


というわけで、いかにして成長物語の必要要素を萌え物語で綺麗に処理したか、については一応の考察をした。
では、萌えキャラクターの成長とはいったい何なのか。


まず、萌えキャラクターではない、普通の成長物語では、どういう成長をするのかを考えてみよう。
それはたいてい、子供が大人になる話である。といっても、安直に、背が伸びるとか、年をとるなどと言う意味ではない。精神的なものである。
つまり、物語ごとに設定されている、ある理想像になる、と言うことである。
幼児が少年になることがあれば、少年が青年になることもある。
いずれにせよ、客観的な見方を身につけるだとか、親離れをするだとか、思春期の悩みに決着をつけるなどと、精神的なものである。


「萌えキャラクターによる、萌えキャラクターとしての成長物語」では、理想的な萌えキャラクターというものが、理想像におかれるわけだ。
人間の理想像が「立派な大人(の方向へ成長すること)」であるならば、萌え作品におけるキャラクターの理想像は「萌えるキャラクター(としてキャラ立ちすること)」なのである。
思い返してほしい。平沢唯は、けいおん!第一話の時点で、完成された萌えキャラだっただろうか?
確かに、萌えられないと言うわけではない。しかし、今、最終話が終わったあとで見返すと、どうも欠点が目につかないだろうか。
そして、逆に第一話を見た後で最終話の唯を見ると、その欠点が、幾分克服され、また克服されてない部分は、愛嬌として消化されていないだろうか。欠点を完全に克服しないのは、それが萌えキャラとして必要なものだからである。


まとめよう。
「萌えキャラクターによる、萌えキャラクターとしての成長物語」とは、萌えキャラクターとしては欠陥を抱えたキャラクターが、成長物語のフォーマットを通して、ちょうど良い具合に欠陥を埋め、完成された萌えキャラクターになっていくこと、である。
この場合、萌えキャラクターを人間として捉えると、決して人間としては完成していないことが多いだろう。しかし、萌えキャラクターとしては完成している。
また、この萌えキャラクター像というのは、人の萌えの数だけ存在する。立派な大人にもいろんな人がいるのと似たようなものだ。


けいおんに関しては、まだいくつか考察をしたい。
だが、今回は萌えキャラクターの成長物語についてひとまずの説明を終えると共に、一度筆をおく。


最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。