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ドラクエ9の過剰言及性、およびその解決について

 ネタバレ注意!





前回(http://d.hatena.ne.jp/SatsukiSU/20101020/1287552553)、ドラクエ6で「外道を装備した王道」についての話をした。
今回は、9の話をする。


ドラクエ9は、一つ一つのエピソードを見る分には、非常に、セオリーどおりの、よくあるお話に見えるかもしれない。
だがその内容は、よくあるとは言いがたい。
というのも、話の展開は忠実に王道に即したものだが、展開する内容そのものや結末は、むしろ王道から逸れているからだ。
現代の問題を、話に組み込む際に、分解などせずそのまま組み込む代わりに、話全体をファンタジーの王道の型に忠実にはめている。
イベントを通して問題は解決しても、悲劇としての結末が待っていることが多い。ニードの宿屋はうまくいかず、ルーフィンの奥さんは死んだまま、石の町の作者は救われないまま死んでいった……
むろん、だからこその良さがあるが、重要なのは、王道の展開の後に、しかし悲劇的な結末を迎えてもなお、面白いということである。


ドラクエ9は、それまでのドラクエと決定的に違う点が一つある。
それは、主人公が人間ではないということだ。
今までは、ロトの子孫であったり、天空人の血が半分流れていたり、あるいは王族であったりはしたが、物語が始まった時点では、人間であったり、あるいはそのように描写されていた。
しかし今作では、始まって早々天使であり、人ではなく、救うべき世界とは一線を引いている。
最初から「人々や世界を救う、人ではない存在」として描かれているのである。
同じように特別な存在ではあっても、しかし存在の立ち位置が決定的に違う。
だからこそ、悲劇的な結末であっても、そういうこともあると、受け入れやすくなっているような気もする。


今までのドラクエは、少なくとも私がやったタイトルに限っては「魔物さえ暴れなければ」「魔王さえいなければ」というユートピアの回復の物語だったように思う。
しかし、9は魔王を倒したところでユートピアにはそうそうならない、という現実をエンディング後に突きつけられる。
旧作ではせいぜい隠しダンジョンやステータス完ストくらいしかやることがなかったのに対して、今作はエルギオスバルボロスを倒してもまだまだやることが残っているのである。


ドラクエ9は、プレイ後にプレイヤーに受け取って欲しいテーマと、受け取った後にとって欲しい行動を、エンディング後の展開に描いているようだ。
普通の映画やドラマの物語、シナリオでは、起承転結のうち、転でテーマを伝えたならば、結はなるべく速やかに終わらせるものであって、延々と続くものではない。
そういう意味では、ドラクエ9には過剰言及性があると言える。
しかし映画やドラマではなくゲームだから、この状態でも成立できるというわけである。
おそらく、エンディング後の追加配信などのビジネスモデルにあわせてこうしたのだろう。
でなければ、上記のような現代の問題を組み込んだとしても、もう少し健全な起承転結になっているべきだし、できたはずだからだ。


問題は、それでも、ボス、倒してエンディング、という構造にした所為で、通常通りのカタルシスを得られなくなったユーザーが反発を示したこと。
こういう構造にするのであれば、起承転結のバランスをずらすのではなく、二つの大きな起承転結を用意して、片方の転結ともう片方の起承が重なり合う構造のほうが良かったかもしれない。
本編の起承転結と、追加クエストの起承転結のことである。
もっとも、配信開始までに間がある配信クエストに、特に転があるのは、プレイヤーの欲求のリズムにあわせて展開できない分、工夫が必要かもしれないが……
これは、全体を30分程度のストーリーに区分けして毎週放映する、テレビドラマやアニメの手法を取り入れれば良いだろう。


従来の物語の構造と、本編+配信クエストという構造のゲームが、剥離をあらわにした一本であり、また第一歩とも言えるだろう。
これは東浩紀さんのおっしゃられていた「ゲーム的リアリズム」とはまた違うものである。
どうも、ゲームがリアルに近づいていく、仮想現実としての道を登ったように思う。
ひとまず「ゲーム内における現実追体験の恒久化」とでもしておく。何かもっと良い言い回しがありそうだが……


最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。