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復活! サブカルをメインに批評・考察・提案するブログです。

ドラクエ6をプレイして、題材の調理の具体的な例を取り上げる

 ネタバレ注意!




ドラゴンクエスト6が「自分探し」という当時の流行を取り入れているのは、プレイすればすぐにわかることだろう。
だが、だからといって現実の浅薄な「自分探し」そのものにはなっていない。
確かな王道の作品になっている。
では、具体的にはどう作られているのか。


まず、現実の「自分探し」をする人というのは、自分のことがわかっていない。産まれてから今までに、わかることができていない。
だから、答えを探そうとする。
これに対して、ドラクエ6の主人公は、自ら両親のために決意を持って世界を旅し、ムドーと対決して敗れ、体と心が二つに分かれた。その結果として記憶をなくしているのである。
つまり、ムドーに攻撃されなければ、自分は自分のままでいられたし、自分を見失うこともなかったのである。
自分の使命や在り方を、持っていたけれど奪われただけ。そして、それを取り戻す。
つまり正確には「自分探し」ではなく「自分取り戻し」だといえる。


現実の「自分探し」と、ドラクエ6内での「自分取り戻し」は、このように構造が異なる。
にもかかわらず、同じような印象を与えるのは、エピソードの見せ方、順番によって、幻と現実のどちらが現実なのか、最初はわからないようにしているからである。
夢で未来の姿を見る、というのは、わかりやすい方向付け、暗示として演出に使われるものである。ゲームから取り上げると、カスタムロボでは、実際にそのようなシーンから始まる。
だから、ライフコッドで目覚めた時点では、まだ決められない。その後の展開で、真実が明かされていく。
重要なのは、その後の展開で精霊の言葉として「本当の自分を探すのです」という言葉があることだ。こういった細部の迎合により、現実の問題との融合を果たしていく。


ドラクエ6の本筋はファンタジーの王道を進む。本当の自分は王子様。魔王を倒して世界を救う……といったドラマチックな展開をする。
だが現実の自分探しで、それはない。現実の自分探しの結末はスタートラインに立つことであって、そういった報酬は用意されていない。
両者の柱はまったく似ても似つかない。
にもかかわらず、ドラクエ6が「自分探し」モノといわれることがあるのは、細部の迎合によって、うまく自分探しというネタを、王道に応用できたからだろう。


現実にある問題や事件を、物語のネタとして扱うとしても、それをそのまま当てはめてしまっては、魅力的な作品にならない。
換骨奪胎、あるいは形骸化、記号に分解と言うこともあるだろう。ともあれ、構造レベルに分解して、どうすれば王道の構造に組み込むことができるかを考えればいい。
これをいったん「外道を装備した王道」と言っておく。


次回は、別の形で外道を装備した王道として、ドラゴンクエスト9を論じてみようと思う。


最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。