new さぶかるメインで

復活! サブカルをメインに批評・考察・提案するブログです。

萌えの平均台――けいおん最終回を迎えて(2)

 ネタバレ注意!




今回は、以前の記事を踏まえて考察をする。
前記事のURLを貼っておくので、未読の方は先にこれに目を通して頂ければ、内容もわかりやすくなることと思う。
「キャラクターの超克――けいおん最終回を迎えて(1)」http://d.hatena.ne.jp/SatsukiSU/20100927/1285598632


上記の記事で述べたように、けいおんは、「萌えキャラクターによる萌えキャラクターとしての成長物語」という構造を持っているということができる。
その上でキャラクター達は、萌えキャラクターとしての魅力が成長していると述べた。
となると、序盤では魅力が比較的少ないということになる。
もし、魅力が足りていなかったら、つまらなかったり、人気が出なかったりするはずだが、けいおんは一期からずっと人気があった。
人気の理由を京都アニメーションというブランドに繋げるのは簡単だが、私はそうでない理由があると考えている。
それは何か。


答えは単純で、まず、一人一人に欠点があったとしても、全体として十分であればいい、というものである。
次に、見せ方、演出である。


具体的に述べる。
「全体として十分」というのは、スポーツのダブルスや、チームプレイをイメージしてもらえばわかりやすいだろう。
では、アニメ、物語の上ではどうするかというと、放課後ティータイム全員で、一人の萌えキャラに必要な要素を、分担して処理するということになる。けいおんでは、一期の序盤から中盤においてこれを実行している。
部活動モノということで、みんなが一緒にいることがほとんどだから、これはやりやすい。
また、一緒にいなかったとしても、その場の全力でぶつかり合わなければならないスポーツの試合ではないから、比較されたり、弱点をつかれるなどして、強制的に欠点をさらけ出されてしまうということがないので、それほど問題はない。
(一大イベント、スポーツもので言う試合にあたる、最初の文化祭でのライブシーンが、欠点と戦っているシーンとして重要な扱いを受けているのも印象的である)


一人一人の魅力が、理想的な萌えキャラクターとして自立できていないうちは、ひとつの流れの中の萌えという表現で、「100パーセントの萌え」を表現したということである。
こうすることによって、キャラクターに欠点があったとしても、それに足を引っ張られることなく、しっかりと、萌えられ、面白くすることができたのである。


また、逆転の発想で、欠点を萌えポイントとして扱うという方法もとられている。
顕著なのが澪の描写である。
恥ずかしがり、極度の怖がり、あがり症というのは、人としてみれば欠点だし、キャラクターとしても、強調しすぎればやはり欠点である。
しかし、そこでデフォルメやギャグとしての演出を加えることによって、萌えに昇華している。
こういう構造もあって、一期、特に中盤までは、澪が萌えの代表のような扱いが見られた。
だが、一期が終わり、二期になるにつれ、澪は萌えの中心ではなくなり、他のキャラクターがクローズアップされていく。


またこのデフォルメも重要な要素で、初期の数話では多用されているものの、話が進むにつれて減少しており、二期となるとほとんど見られない。
デフォルメで萌えを演出してごまかさなくとも、話が進むにつれてキャラクター自身が萌えキャラとして自立していくので、それに伴って、十分な萌え描写ができていくというわけである。
このように、さまざまな手を使って、変化していく話の中で、常に100パーセントの萌えを実現し続けるというわけである。
これをバランスをとり続けるという意味で「萌えの平均台」といっておく。
(ただし実際には、平均台の上で多少ふらつくように、小刻みな変動をしている)


放課後ティータイム全員の集合萌えと、デフォルメなどの演出によって、萌えキャラクターとして成長しきる前でも、作品として萌えられる、という分析となる。
これは、ある程度同格のヒロインが複数いるからこそ、できた構造といえる。
では、もし複数いなかったらどうなるのか。別の作品を見てみよう。
最近アニメ化した「俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)」を例に出すと、女の子は複数出てくるものの、物語の上で重要なのは桐乃一人である。いわゆるメインヒロインだ。
しかも、ツンデレというやっかいな性格をしている。原作を知っているオタクや、あるいはツンデレという物を知っているオタクは、先が想像できるが、知らない人にはそうもいかない。
主人公の幼馴染や、その他の脇役達がそれ以外の性格をしていると言っても、桐乃と同格の扱いは受けていない(少なくとも最初のうちは)。
彼女達脇役や、フェティッシュな描写などで萌えられないわけではないが、それは桐乃と同格な何かではなく、あくまで付随物なので、埋め合わせとしては足りない。
つまり、常に萌えが100パーセントではないことになる。
では、どうしているのか。


「俺妹」が「けいおん」と比べて最も異なるのは、いわゆる日常系、空気系ではないということである。物語全体がゆるやかではないのである。
ドラマチックといえばわかりやすいだろうか。
萌えが最初の時点で100パーセントではなくとも、進行が早く、変化が顕著な作品だから、先を期待して見続けることができるわけである。
最初の時点で萌えの割合が低くとも、ゴールが萌え100パーセントであればいい。
先ほどと対応させて「萌えの跳び箱」と言っておこうか。助走や反動をつける段階では高くジャンプしないが、最終的に見事跳ぶことができればいい。最終的に、あるいは節目ごとに、一撃必殺的に萌えられればそれでいいのである。


しかし、平均台を勢いよくジャンプして飛び越え、それを繰り返しても意味がないし、また、跳び箱の上を歩いてもしょうがない。
けいおんのような日常系で、最初から萌えの割合が低いと、変化が遅いからなかなか萌えられないし、「俺妹」のようなドラマ系で、最初から萌え100パーセントでは、変化の落差が少なすぎてつまらないということである。


けいおんという、日常系の萌え分野作品において「萌えの平均台」は有効な手法である。
しかし、なぜバランスをとり続ける必要があるのだろうか? いったんバランスが取れれば、すぐには倒れまい。
それは、日常系にもかかわらず、物語構造にそって変化し続けているからである。
けいおんは「萌えの平均台」の上で棒立ちし続ける作品ではない。
その上を、渡りきった作品なのだ。
平均台の上の歩みは緩やかなスピードかもしれない。しかし進んでいる。




最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
この連載は、あと1〜2回の掲載を予定しております。