期待と評価――❝裏切られない❞ために
ある有名で能力の高い方を(まったくもって完全ではないものの)追っていてわかったことを備忘録程度に書いておきます。
人のある面を評価するとき、その面が良いにしろ悪いにしろ、そこだけを評価するべきです。
優れている一つの面があるから、他の、あるいはすべての面でも優れているに違いない、などと思うのはお門違いだというわけです。
逆もまた然り。
その人はある能力がものすごく高いのですが、人間だからそうでない部分もあり、また能力以外の面ではダメな部分があったりもします。
でも、だからといってある能力の評価が覆るわけでは、ありません。
それが正当な評価というものでしょう。
だから、よほどのことでない限り、「この人に絶対ついていく」とか思わない方がいいでしょう。
いや私も思ったことありませんけれども。
そこまでいかなくても、過剰な期待をすれば当然裏切られるわけです。
過剰なんですから、現実とは当然ギャップがあります。
「~~ついていく」ほどではなく、誰かの単なるファンでも相手に失望することがあるでしょう。程度の差はあれど、それと同じ構造です。
前述のよほどがある人は、奇跡に見舞われた幸福な人だと思います。正直、うらやましい限りです。
もっとも、ここに書いてあることを本当に実践できているのなら、ちょうどよくバランスをとって「この人に絶対ついていく」ということができる場合もあるでしょう。
ついていく部分を限定するのかな。
ただし、こんなこと言っておきながら、有名人で会ったこともない人で、一方的に情報で知っているだけの相手には、私もまだまだ期待をしがちです。
こういう活動をしている人だから、優しいに違いない、とか。いい人だろう、とか。知らない相手なのに……。
ただ今回書いたような前提があれば、現実を知って、その人の像を修正するときに比較的苦しまなくて済むというわけです。
「裏切られた」などということや、「失望した」などということが減るわけです。
その方が幸福な人生を送れると思いませんか?
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
ブログのデザインを変えましたが……
ブログのデザインを変えましたが、まだ試行錯誤中なので、また変える可能性は大いにあります。
でもとりあえず今回の方が前よりも読みやすい気がします。
可能なら、自分でデザインやってみたい気もするけど、時間とれるかなあ……。
それでは。
さつき
作家性=毒についての一考察
私の落ちた原稿から読み取った欠点は数多くあるが、今回はその中の一つを語る。
それは、「作家性=毒」の多さ、である。
私は、作家性=作家の(自然体での)語りたいこと、であると思っている。
それの何が毒なのか? と思われる方もいるだろうから説明する。
自然体の作家の書きたいこと、語りたいことというのは、その作家の抱えている思いや特別な好みから生まれるものである。
対して、こうすれば売れるだろうというような工夫や発想の前提によって加工された作家性は、自然体の語りたいことではないわけだ。
話を戻す。
しかしそれをそのまま原稿にしてしまうと、その作家にとっては面白いのだが、他人にとっては理解しがたかったり、面白くなかったり、することが多くある。
たまたま多くの他人にも受け入れてもらえる作家性であればいいが、たいていはそうではないということだ。
偏っているからだ。
それは娯楽小説にとっては毒だ。
商業(あるいは商業を目指した)娯楽小説とは他人のために書くものであり、自分のためだけに書かれたようなものではないのである。
例を挙げよう。
私はつらい目にあい続けた半生を送っている。
ストーカーまがいのキモ男による被害、
誹謗中傷、
いじめ、
根も葉もないうわさ、
はたまた呪い(呪うって言われた)、
治らない病気……
等を体験した俺ではあるが、これらへの思いを一つの作品にぶち込んで面白くなると思えるだろうか?
多すぎるとは思えないか? 一つで十分ではないか?
私のような人が創作に向き合う時、作家性を一つに絞って、かつ面白いように薄められればいいが、そうもいかない場合がある。
抱えている思いが、多すぎるのだ。
それに対し、慣れないうちは書く量が少ない。出口が少ない。
そこであれもこれもと入れすぎてしまうのだ。
そうすると、とっ散らかったり、何が言いたいのかわからなくなったりして、面白くなくなる。
これを避けるには、つらい作業ではあるだろうが、自分の吐き出したい毒を思い出してメモするようにして、作品に込める毒を、その全てではなく、ちょうどいい塩梅まで減らすという方法もある。
またそのメモとネタを照らし合わせて、このネタはこのメモの毒Aからきている、というような作業をし、客観的に見直すという方法もよさそうだ。
あるいはその発展形として、複数のネタを同時に抱え、書くのは一つずつであっても、その一つ一つに毒を散らす、などが考えられる。
別にここまで不幸でなくても、人間生きていれば吐き出したい毒は溜まっていくものだ。
だから、他人事と思わず、自分のネタや作品を、見直してみてほしい。
毒が多すぎや、しないか?
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
才能を発揮するには――「できる」と「できない」
皆さんは、自身の才能を把握しているだろうか。
答えは様々だろう。
だが、そもそも、人は自身の才能を把握することなど、可能なのだろうか?
挑戦してみて、成果が出れば、その成果分は才能があったことになる。
だから、すでに大成功している人は、自信をもって自分には才能があると言えることだろう。
しかし、まだ挑戦していない時点でも、才能がある可能性は存在するはずではないのか。また、成果が出ない場合でも、その後花開く可能性がある以上、才能がないとは言い切れない。
このように、才能というのは、把握できる場合が限られているものなのだ。
だからこそ、何かをする際は「できる」と思って事に当たった方がいい。
「できる」と思っていると、実際に「できる」場合や、「できるようになる」場合があるものなのだ。
反対に、「できない」と思って事に当たると、失敗し、成果が出ないことが多い。そのうえ、本当はできたはずのことが、できなくなる事すらある。
思うに、個人の何らかの実力というのは、「体に染みついた、意識しなくても行える能力」と「無自覚に身についている、自分にとっては未知数の能力」の二つが合わさったものであり、後者には才能も含まれる。
そして、後者は無自覚で未知数だからこそ、「できない」と思っていると、発揮されなくなってしまうのである。
人はだれしも、自らの精神状態の影響を受ける。ならば、「できる」と思っていれば調子がよくなり、「できない」と思っていると調子が悪くなるのは、当然ではないのか。
「できない」という呪いじみた思考を自らに施すのは、やめた方がいい。
やってみたら、できるかもしれない。いや、できる! と思って挑戦を繰り返した方がいい。
思い出してみてほしい。子供のころや若いころに挑戦する場合は、未知数の自分込みで挑戦するのが当然な場合が多く、だからこそ、才能を試すことができることも多かったのではないか。
だが歳を重ねると、自分のことを分かったつもりになってしまう。未知数の自分などいない気になるのだ。だから、才能を試せない。本当は才能はあるかもしれないのに……。非常に、もったいない話だ。
自分のことを本当に把握できている人間など、ほとんどいない。必ず、未知数の部分がある。だから、わかったつもりという呪いじみた思考からは脱するべきだ。
そして、歳をとっていないにも関わらず、呪いじみた思考にはまり、才能を試せない人もいる。
そういう時は、自分自身を疑ってみることだ。呪いじみた思考を解く第一歩となることだろう。
才能を発揮するには、「できる」と思って挑戦することが、肝要なのである。
もちろんこの記事は、慢心することや、危険なことに飛び込むことを推奨しているわけではない。
そういったことは前提として、共有しているものと思って記事を書いたが、そうでない場合もあるだろうと思ったので、最後に注意事項として書き加えておく。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!
日常系にスリルがある場合の面白さ――「けいおん!」と「女装コスプレイヤーと弟」、「ひげを剃る。そして女子高生を拾う。」
いわゆる、日常系と呼ばれる作品に、スリルがあると面白い、と言うことについて語っていきたい。
日常系にスリル、と言うと「そんなもんあるわけねーだろ。起伏のない作品が日常系だ」と言われるかもしれない。
確かに、劇的な方向の作品に含まれるスリルをそのまま持ってきたら、大失敗だ。刺激が強すぎる。お汁粉に塩をドバドバ入れるようなもので、作り方を間違えている。
しかし、甘いだけと思われがちなお汁粉だが、作る際、塩を一つまみ入れると甘さが引き立つということを知っているだろうか。ここで論じていくのは、この「塩一つまみ分のスリル」のことである。
さらに言えば「起伏はある」のである。
どういうことなのか、語って行こう。
まず、アニメ版けいおん! は、主人公に平沢唯という、抜けたところのある女子高生を置いている。このことは、第一話の冒頭で、時間をうっかり間違えるというエピソードでもそれとなく示されている。
この「抜けている」という要素が、話全体をいい方向に引き締めているのである。部活をなかなか決められなかったり、テストで赤点を取ったり、歌詞を忘れたり、ギターのメンテをしていなかったり、風邪を引いたりと、これらの「平和なアクシデント」がなければ、作品は文字通り起伏が無くなり、相手にされなかっただろう。
そう、日常系では日常系なりの平和なアクシデントが必要な場合があり、この「アクシデント」を言い換えると「スリル」になるのである。
抜けたところのある唯が、果たして平穏無事に高校生活を送れるのだろうか? という形での「スリル」である。
この場合は、主人公に「スリル」を内包させている形となる。
同じように主人公にスリルを内包させている名作として、「女装コスプレイヤーと弟」という名前で商業出版されている漫画がある。個人的に日常系に分類させていただいている。
「という名前で」……? そう、この作品はTwitterやpixivにおいて、多少違う名前で、無料連載されている漫画なのである。
それはさておき、この作品での主人公は女装コスプレ趣味を持っている。その趣味を親の再婚でできたフランス出身の弟に見られ、一目ぼれされた上、なんやかんやで正体を隠しながら女装コスプレ状態でも接していくことになってしまう……という筋書きになっている。
この場合、「抜けたところがある」ではなく、(女装コスプレとその正体を隠す)「秘密を抱えている」という形で、「スリル」を作り出していることになる。
このスリルが、作品を読む際にちょうどいいスパイスになる。
「主人公にスリルを内包させている」というところまで抽象度を上げていくと、同じではあるのだが、ではどのようなスリルなのかというところまで抽象度を下げると、異なるものが見えてくる。
「秘密を抱えている」というスリルとしては、「ひげを剃る。そして女子高生を拾う。」という小説も存在する。「カクヨム」という投稿サイトで人気を博したのち、商業出版もされた作品だ。
この作品は、サラリーマンの主人公が、事情を抱えていそうな家出女子高生と出会い、なんやかんやで家に保護して同居生活を始める、と言うものだ。
この場合は、「家出女子高生を匿う」という一種危険な秘密を抱えつつ、会社に勤め、ラブコメディが展開されていくことになる。
初めて読んだ時、「そうか、この手があったか!」と唸ってしまったものだ。
もちろん、メインとしてはスリルを味わう話ではなく、ラブコメディを楽しむものだろうが、このスリルも重要な側面として立ち上がってくるわけだ。
例を挙げるのはこのくらいにしておこう。
もう十分に伝わったかと思うが、「日常系の作劇方法として、平和なスリルを入れる場合がある」そして「その方が面白くなる場合がある」ことを繰り返しておく。
そうすることによって、話がほどよく引き締まり、かえって面白くなるのだ。「お汁粉の一つまみ分の塩創作論」とでもしておく。
なお、この批評は面白さについて語ってはいるが、これらの作品の面白さはここに書いてあるだけのものではないことを断っておく。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!
新年あけましておめでとうございます。
あけましておめでとうございます。
さつきです。
実は特に書くこともないのですが、新年のあいさつくらいここでもしておこうかと思い立ち、ブラウザを開きました。
今年の抱負は「前作より面白い小説を書く!」になります。
批評じゃねーのかよ! と思った方もいらっしゃるでしょうが、ここがはてなダイアリーだったころから、私にとって批評は二番目以降なので……。すみません。
一応、批評の方の抱負も書いておくと、「一月に一度くらいのペースで更新……できたらいいな」という感じです。
映画や本に類するものならまだしも、テレビゲームの批評はめっちゃ時間かかるんで今後減るかも。というか、すでに減ってるかも。
それでは、また。
今年も一年ありがとうございました。
来年はもう少し多く記事を書ければいいなあと思いつつ、できるかどうかは未知数なさつきです。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
夏に入るくらいまではまだ調子がましだったのですが、夏からこっち、様々なことに影響の出るスランプ(?)に陥ってまして、まだ完全には払拭できていません。
ここの記事は、短い時間で書けるのでそこそこ書いていましたが……。
がむしゃらにやればいいってもんでもありませんね。ちゃんと問題と向き合って何とかしていかないと、と。頭では、わかっているんですけどねー。
そんなわけで、本業にしたく思っている小説も含め、今年は停滞の一年となりました。
来年は再起動、活躍の一年にしたく思っているので、まあ、まずはいろんなところで手を動かすしかありませんね。
それでは、よいお年を!