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復活! サブカルをメインに批評・考察・提案するブログです。

FGOにおける英霊キャラとそれ以外~完成系キャラと未完成系キャラ~

 この批評は、Fateシリーズ、特にFate/Grand Orderのネタバレを盛大に含むので注意!

 

 今回は、主にFGOの英霊キャラクターの特徴について考えていく。

 

 FGOの英霊キャラは、神話、歴史、または既存の物語上に元となった人物がいることが多く、名前が分かった時点でわかる人には背景情報がおおよそわかってしまう、登場した時点で(ガチャで引いた時点で)完成している、完成系キャラである。

 死後、英霊の座に招かれ、後に(主に分霊が)召喚されるという設定上からも、それは避けられないものである。

 

 それに対して英霊でないキャラ、つまり普通の創作上のキャラクターというものは、登場した時点では未完成系キャラであることが多い。読者にとって、物語を読み終えることで完成するのであって登場した時点では完成していないからだ。名前がわかっても、イメージはできても既存の神話・歴史的知識と照らし合わせることはできない。

 

 この2つの分類の中間に位置するキャラクターが、FGOのメインヒロインと思われるマシュ・キリエライトである。

 マシュは皆さんご存じの通り、サーヴァントとして召喚された英霊と融合したデミ・サーヴァントである。そしてどの英霊と融合したのかは途中まで明かされない。

 これは未完成系キャラと完成系キャラの融合ともとれる設定であり、物語上でも両方の利点を扱える、非常に秀逸な発明である。

 

 話を完成系キャラに戻そう。

 FGOでは、ガチャで表示される画面だけでも、英霊キャラ、つまり完成系キャラの名前とビジュアルがわかる。そしてそのビジュアルは情報量が多く、名前と相まって画面を見ただけで欲しくなるほどだ。

 情報量が多いということは作画カロリーが高いということではあるが、漫画やアニメとは違いこの手のゲームでは一度描いた立ち絵をある程度使いまわせる。一度描いてさえしまえば何とかなるというわけだ。流石に一枚では足りないが。

 これは昨今の、見る前に内容を知りたいという一部の風潮にも合っているし、特に見ただけで感想を言いやすい(=見ただけで欲しくなる)キャラクターデザインはオタク間のコミュニケーションツールとしても強力である。

 

 その一方で、完成系キャラは、名前を聞いただけで背景情報がわかってしまうことから、意外性を設定事項の中に入れることが一見難しい。

 しかし、FGOでは人物への解釈と、キャラの想いでそれをクリアーした。

 いくら背景情報が大まかにわかるとしても、娯楽創作物においては情報の取捨選択がある。その点で意外な取捨選択をすることができる。もっと言えば娯楽創作物は現実ではないため嘘(=創作)がまかり通るので、その点でも意外性は盛り込める。これが解釈による意外性だ。

 キャラの想いとは、完成系キャラ、つまり英霊キャラが生前などに抱いていた想いの吐露のことである。

 その想いは葛藤のこともある。

 読者に神話的・歴史的な知識があっても、想いまでは全てをわかることはないはずで、その点で創作の余地がある。そこに意外性を盛り込む、というわけだ。

 

 むろん英霊キャラであっても、プレイヤーが知らない人物であることもある。マイナーであればあるほどそれは成立しやすく、その点でシナリオ上の意外性を出すこともできよう。

 

 思うに、FGOでは、ゲーム内にガチャシステムがあり、物語上で正体を隠していてもおおよその場合ガチャで引かれた時点で名前を知られてしまうから、こういった仕組みの完成系キャラにせざるを得なかったのではないか。

 キャラの一部にはシナリオをクリアするまで名前の隠されている英霊キャラもいるのだが、全ての英霊キャラでそれをやるわけにはいかなかったのだろう。「またか……」と思われる、つまりワンパターンになってしまうからだ。

 

 ただしこの論はFGOでは成立するが、Fate/staynightではあまり成立しない部分もある。staynightでは真名を隠す理由とメリットがあるのと同時に実際に物語上でも隠されていて、物語が進むにつれてようやく英霊キャラの正体がわかるからである。

 

 これらの分析から得られる創作論を、私の目指すライトノベルにも適用できないものか。

 個人的には、できると思う。

 ライトノベルは絵を使いまわすことはないが、漫画やアニメと違い、描く枚数が少ない。一枚ごとの作画カロリーが上がっても、何とかまだ対応できるのではないか。

 さらに、表紙を見ただけで欲しくなるようなキャラクターデザインのビジュアルという考え方は、ガチャの画面に表示された名前とビジュアルを見ただけで欲しくなる仕組みと近いものがあると思う。

 同じではないが、応用はできるはずだ。

 

 

 ということで、私の既存の知識だけで批評を組み立ててみた。

 今後分析・研究を深め、もし新たな批評が書けそうであったら、また書きに来るだろう。

 それでは。

変わり続ける命のカタチ~私がオバサンになっても~

 最近、ハマっている曲がある。

 

 それは「私がオバサンになっても」という名曲である。

 

 夢中になった発端は、有名Vtuber・宝鐘マリンが、3周年記念歌謡祭で風真いろはという他のVtuberとデュエットしているのを聴いたことだ。

 可愛く明るくカバーしている姿に、「Vtuberが寿命ある存在の悲哀と希望の歌をこんな風に歌い上げるのか!」と衝撃を受けた。

 ご存じの通り、Vtuberの姿が歳月とともに老化することは(基本的に)無い。

 その点で、老化と向き合い、付き合っていかなくてはならない寿命ある人間の宿命から、少しだけ逃れている。

 

 だが、ご存じ「私がオバサンになっても」は、オバサンになっても――つまり老化しても変わらず添い遂げてくれるのか、という問いかけを内包した歌である。

 実際、原曲の森高千里のシングル・ヴァージョンでは、切なげに歌い上げられている。花の命は短くて、若く綺麗で居られるのはごく限られた時間で、あなたはその後も変わらず付き合ってくれるのか、というわけだ。

 きっと他の方も言っておられると思うのだが、最後のサビ(という言い方で合ってるのだろうか?)で希望に転化し、そこが素晴らしいと私も思う。

(アルバム・ヴァージョンでは、比較的明るく歌い上げられており、どちらかと言えばマリンといろはバージョンに近い。推測だがせっかくのヴァージョン違いだから歌い方も変えたのだろうと思っている)

 

 思うに、マリンといろはがこの曲を可愛く明るく歌っているのは、Vtuberだからこそ、寿命ある人間の宿命から少しだけ逃れることができたからこそではないか。

(見た目上)オバサンになることが基本的に無い存在だから、その方が自分たちに合っているから、こうなった、というわけだ。

 

 しかし、仮に本当に完全に寿命の無い存在で、永遠の命があったとしても、年を経るごとに精神面の変化は当然ながらあるだろう。精神はオバサンになっていくだろう。

 そして実際には、Vtuberには永遠の命はない。思い出の中や、アーカイブの存在等で永遠と言えるかもしれないが、あえて嫌なことを言えば、現実には引退などする者もいるし、それでなくとも寿命と老化の宿命から逃れることができたのは外見という、一つの点だけである。

 だからか、この歌謡祭での歌唱バージョンでも切なさや希望への転化を感じ取ることができ、泣けるのである。

 


 この歌謡祭は他の曲も素晴らしいので、ぜひYoutubeで検索して聴いてみて欲しい。

 

 ところで、この歌謡祭、ライブ音源的な感じで、曲ごとに売り出してもらえたらすごく嬉しいんだよね……あるいは、まるごとDVDで販売でもいい。いや、動画のダウンロード販売でもいいから……とにかく手元に置いておきたい。

 それだけ夢中になった歌謡祭だった。

 強くオススメしておく!

青春の疑似体験~ポケモンスカーレット感想~

 オーオーオオー♪

 オオオオオッオー♪

(ジム戦等のテラスタルする時に流れるあの合唱だと思ってくれ)

 

 というわけで、ポケモンスカーレットのストーリーをクリアしたので、感想をアップロードする。

 しかしプレイしながらメモを取らなかったので、主に記憶で組み立てていく。

 だから細部の感想の抜けはどうしても出てくる。ご了承のほどを。

 

 以下、ネタバレ注意のためプレイ済みの方のみ読んでみて欲しい。

 

その1 スターダスト☆ストリート

 

 謎の存在カシオペアに導かれ、不良のような集団のスター団を解散させるために各地のスター団のボスを倒していくストーリー。

 

 ポケモンはシリーズを通して「~~団」と言う悪役が登場することが多い。

 少なくともXYまでは悪役だったと記憶している(ルビサファのような部分的な相対化などはあるが)。

 だが、サンムーン以降は敵対していても、「裁かれるべき悪」としての描かれ方は少なくなっており、敗者の受け皿だったり、ちょっと過激だけど単なる応援団だったりする。

 そしてその「単なる悪役でない度合い」は作を追うごとに増していっており……今作での「スター団」は、第一印象こそ悪いものの、実際は悪ではなく「いじめられっ子の互助組織」として存在していることがストーリーの途中で明かされる。

 次回作での「~~団」は完全に主人公の味方になるのか、それとも初心にかえって悪役になるのか、あるいは完全な味方ではないものの、今作よりもさらに悪でない方向の存在になるのか、期待が膨らむ。

(そういえば、番外作品ではあるもののレジェンズアルセウスでは主人公自体がギンガ団の一員になるのだった)

 

 初代のロケット団からXYのフレア団までは主人公が冒険する上で障害となる悪役を引き受けていたのだと推察されるが、なんなら創作物としては日常系作品群のように、悪役がいなくても障害は存在できるし、または障害が無くても物語は成立できるのである。

 特に、冒険物語としてのポケモンは、明確な悪が無くても成立するし、無い場合を突き詰めて娯楽にするのも一つの方法だろう。

 

 スター団の「スター大作戦」によって逃げ出した、かつてオレンジアカデミーに在籍していたいじめっ子たちは本作には直接登場せず、回想などでわかるのみとなるが、もし今作に「裁かれるべき悪」が存在するとしたらこのいじめっ子たちであろう(すでに裁きは受けているようなものであるが)。

 そういう意味では、前作のポケモンソードシールドにおいてファンの間で想像された「ガラル地方に悪の団がいないのは、現チャンピオンのダンデによって滅ぼされたからではないか?」という仮説のように、「パルデア地方のアカデミーにおける「明確な悪」としてのいじめっ子たちは、いじめられっ子たちのスター団によるスター大作戦でいなくなった」という、こちらは仮説ではなく明確に語られた事実があるわけで、スカーレットが「明確な悪を裁く」旧来のポケモンシリーズと同じようなシナリオだった場合、スター団の面々、とりわけマジボスであるボタンのポジションが主人公だった可能性はある。

 

 スター団の面々には基本的に嫌な奴がおらず、互いが互いを思いやる友情と青春という宝物が描かれていた。

 

その2 レジェンドルート

 

 博士の母親と折り合いが悪いペパーという少年とともに、各地のひでんスパイスを入手するために、強力なヌシポケモンを倒していくストーリー。

 

 スパイスという言葉からは、パルデア地方のモデルがスペイン・ポルトガルと言うこともあり大航海時代にヨーロッパ人が香辛料を求めていたことを思い出させるが、あくまで想定されるネタ元であり、別の国へひでんスパイスを取りに行くような展開は一切ない。冒険はあくまでパルデア地方の中で行われる。

 

 何故ひでんスパイスが必要なのか? というような問いに対して、ペパーはマ……と言いかけたため、当初はてっきりママのためかと思ったが全く異なり、2つ目のひでんスパイスを入手した時にペパーの愛するポケモン「マフィティフ」のある場所で負った大怪我を治すためだとわかる。

 

 このルートでの思い出は、他のヌシポケモンをとばしてイダイナキバとの戦闘に入ってしまい、何度もポケモンを入れ替えたり回復したりしてギャラドスのとくせい「いかく」を使って相手の攻撃を下げたり、そうこうしている間にペパーのポケモンが結構イダイナキバの体力を削ってくれたりするなどして、レベル差があるにもかかわらず作戦勝ちしたことである。

 ポケモンシリーズでこういう体験をしたのは、レッツゴーピカチュウでのレベルを十分に上げていなかったのに挑んでしまったミュウツー戦で、ギャラドスにプラスパワーか何かを使いまくった上で悪タイプのわざ……かみつくもしくはかみくだくで倒したとき以来である。

 

 ペパーの第一印象は良いとは言えなかったのだが、一緒に冒険をしていくうちに、ポケモン想いの良いやつじゃん! となり、ここでは詳細を省くが「ザ・ホームウェイ」をクリアするころには完全に感情移入と言うか、大切なキャラの一人になっていた。

 シナリオの基礎に「アンチ(逆)から入れ」というものがあるが、もしかするとそういうことかもしれない。

 

 このレジェンドルートはペパーのマフィティフが完治することで終了となるが、ペパーの母親のオーリム博士からパルデアの大穴・エリアゼロへ来てほしいと連絡が入る。他のシナリオと合わせて3つのシナリオをクリアした後に、実際にエリアゼロへ足を踏み入れられるようになる。

 

その3 チャンピオンロード

 

 マジ ネモいな

 


 で、すませようかとも思ったがさすがにそれでは酷いのでもっと書いておく。

 

 他の2つのルートがしんみりしていたりするのに対して、このルートは明るいシナリオだ。それと言うのも本作のライバルに当たるネモという女の子が(主人公の前では)常に明るくバトルを楽しむ人物だからだろう。

 

 今作ではチャンピオンは一人ではなく、「チャンピオンランク」に属するトレーナーが複数いるという世界観になっている。

 これは私の持論だった「ポケモンは、プレーヤーがチャンピオンになるシナリオで絶対化される体験をした後に、通信対戦で負けたり勝ったりして相対化される体験をするゲームだ」という批評を乗り越えていく変化と取れる(さすがに批評が公式に届いてはいないだろうが……)。

 

 絶対化の要素がなくなったわけではないが、今までよりは相対化されているわけだ。

 

 前作までのポケモンを念頭に置くと、チャンピオンを目指すシナリオと並行して伝説のポケモンと絡めた悪の団等のサブのようなシナリオが並行して進んでいくというものが多かった。チャンピオンを目指すという点だけをみれば毎回同じだと言われてしまうかもしれないが、そこはそれ、王道と言うものはそういう物で、その中でどれだけ差別化できるかというところが勝負なのだ。そういう意味では、その伝説のポケモンや悪の団、またはその他の脅威などが差別化しやすい点だと言えるだろう。

 

 私の個人的に好きな作品であるサンムーン(およびウルトラサンムーン)は全体の雰囲気が最も冒険でなく観光に寄った作品だと思っていて、これは全体の雰囲気という点でも差別化されている。

 

 しかし今作は攻略の順番が自由な上記の3つのシナリオが用意された。

 これにより、チャンピオンを目指すシナリオ単体でも評価されてしまうことになった。

 今までの主な差別化要素の伝説ポケモンや悪の団と分けて見られるという、一見差別化しにくい構造になってしまっているが、最近の娯楽における正攻法の、キャラクターを重視するという解決策で差別化をクリアしている。

 それは、今までにないキャラクターを置くというものであり、そのキャラクターこそがネモである。

 

 ネモはバトルジャンキーであり、真剣勝負に負けても喜ぶほどだ。全力で戦って(戦えて)より強くなることが喜びのようだ。この点が実に誇張されており、SNSでもネタにされている。

 

 この点を考えると、この批評のその3において、「マジ ネモいな」で済ませようとしたのも、あながち間違いではなかったと言えよう。

 

その4 ザ・ホームウェイ

 

 衝撃のシナリオだった。もちろんいい意味でだ。

 

 ネモ・ボタン・ペパーと4人でエリアゼロを探索するのは単純に嬉しかった。それだけにクリア後に1人でいくのに寂しさを覚えたほどだ。

 何よりスターダスト☆ストリート、レジェンドルート、チャンピオンロードの3シナリオが全て伏線として機能し、総まとめのシナリオとして申し分ない展開を繰り広げる。

 素直に強く感動した。

 

 何故タイトルがザ・ホームウェイなのか? あのラストシーンから持ってきたのだろう。ペパーはかわいそうな境遇になってしまったが、友達、いや親友たちと一緒ならきっとやっていける。

 

 ポケモン金銀クリスタルにおけるマサキの発明タイムカプセルなどへの言及がなく、ひょっとしてそれよりも前の時代の話なのかとも思った。

 個人的な話になるが、オーリムAIがマサキの元へタイムスリップしてしまう二次創作を書こうかと思ったほどだ。

 

 DLCでは各タイトルにおける出てこなかった方の博士でありペパーの親が登場するのかな……などと想像を広げている。まあ、全く違う可能性も高いが。

 ともあれ、DLCでは未解決の謎(タイムパラドックス)や円盤のポケモンについて綺麗に解決してくれるのではと期待している。

 

その5 キャラクターのビジュアルについて

 

 こういうのも、一度やってみるのは良いことだ。

 だが、可愛いビジュアルに戻してほしい。

 

 主要なキャラクター達は魅力的だったと思うが、それでもどこか外したキャラデザにしてある気がする。

 モブ、つまり脇役のトレーナーたちはもっと露骨で、見ていて嬉しくなるようなキャラデザはほぼ無かったように思う。

 サンムーン、およびウルトラサンムーンまで、キャラクターがどんどん可愛くなっていくのを感じていたので喜んでいたのだが、剣盾以降、反対に舵を切ったように思える。

 なんというか、ざっくり言うと剣盾では「女性が可愛いというが男性はそうは思わない」キャラデザが増えた(特にモブ)。

 そして今作は、言ってしまえばいわゆるポリコレに配慮しすぎている感じがする。

 

 個人的には、ギリギリ不快ではないキャラデザを目指すのではなく、はっきり快いキャラデザを目指してほしい。

 一歩間違えればファンが離れるのではないかと思える危うさがある。

 

 可愛さはナンジャモがいればいいだろうというような。

(その割に全クリ後、ナンジャモと戦えないし……)

 

 いや、十分に面白さは感じるのだが……。

 ちぐはぐさを感じるのだ。

 ポケモンは一会社の一作品であり、この世界の道徳を体現する必要などない、ただの優れた娯楽でしかないことを思い出してほしい。

 

その6 ゲームシステムについて

 

 今までも段階的に対戦用ポケモンの育成が楽になっていたが、今作はかなり踏み込んで楽になったように思う。

 またそれによって、プレイヤーの行動が世界観に沿った行動に収まるようにもなった。

 どういうことか。

 

 それは、ゲーム内金銭がありさえすれば、テラスタイプと経験値以外はどうにでもなるという変化である。

 ファンが考案した金策ニンフィア等を育てれば、ゲーム内金銭に困ることは無くなるので、実質テラスタイプと経験値以外はどうにでもなる。

 

 きそポイントはマックスアップやタウリン等のえいようドリンクアイテムを買いそろえて使用することで最高まで上げられるし、個体値はぎんのおうかんが売っているのでレベルを50まで上げてから(これも以前は100レベルだったからずいぶん楽になった……)すごいとっくんをすればいい。

 性格による能力値の変化も、やはりゲーム内金銭で買える各種ミントをかがせればそれで済むようになった。

 

 えいようドリンクは前作でも購入できたし、それだけで最高まで上げられるようになったのも前作からであるが、ミントやおうかんの入手が大幅に容易になったのが大きい。

 なにせ以前はBPというお金とは別の通貨を手に入れなければならず、手に入れるためにはバトルタワー等で勝利を重ねる必要があった。

 だが、バトルタワーにおける戦闘は最初の内は楽であるものの、

 

・何連勝もする必要があり、めんどう

・そもそもある程度育成したポケモンを連れてこないと途中からは厳しくなる

 

 という仕様のため、育成するためには育成したポケモンが必要という、ある種矛盾のような(大変なだけで矛盾ではないが)仕組みになっており、通信対戦にかける情熱が高い人にとってはいいものの、初心者やエンジョイ勢へ通信対戦の裾野を広げるにあたっては適さないものとなっていた。

 

 また、性格厳選はかわらずのいしで固定できるためまだいいとしても、個体値については孵化厳選の結果として最良の個体を出すことが多い。あかいいとを持たせることによって効率は以前よりも上がっていたが、それでも何時間も費やしタマゴ孵化ばかりをして、最良でなかったその他数十匹のポケモンは逃がすか交換に出すかというのは、歴代ポケモンのストーリーで語られる世界観とはどこか違うように思う。

 

「つよいポケモン

 よわいポケモン

 そんなの ひとの かって

 ほんとうに つよい トレーナーなら

 すきなポケモン

 かてるように がんばるべき」

 

 というポケモン金銀の四天王カリンの有名すぎるセリフがあるが、私は通信対戦の魅力というよりはシナリオやゲーム性に感動したクチなので、今作での、「弱い(=対戦に向かない)個体でも、頑張れば(対戦に向いた)強い個体になれる」という仕様を支持する。

 思い入れという意味では、ポケモンの種類だけでなく、最初の一匹を最後まで使いたいとか、対戦でも使いたいとかいうのは自然にある欲求で、特に子供の頃にプレイした場合はそれが大きいのではないか。少なくとも私はそうだった。その願いを叶えたという点で非常に評価できる。

 私のプレイした範囲の初代妖怪ウォッチゲームボーイカラー時代のドラクエモンスターズではこれが不可能で、最初に味方にした妖怪はそんなに強くなく、また看板キャラのジバニャンを味方にしてもその後は他の妖怪を使わざるを得ず、がっかりしたことを覚えている。ドラクエモンスターズでは思い入れのあるモンスターの血を継いだモンスターで戦うことは不可能ではなかったが、やはり最初のスラぼうで全クリは厳しい。もっとも、昔のポケモンだってストーリーは最初の一匹とともにクリアできるものの、対戦で使うのは厳しいことが多かったのだが。

 

 話を元に戻せば、だいたい、製作者側も、プレイヤーに楽しんで欲しいのは孵化厳選ではなく対戦の方ではなかろうか、と思うのだ。

 

 残る課題はテラスタイプと経験値であるが、テラスタイプはやりこみ要素やレイドのモチベーションとして必要なテラピースの数を増やしたのだろう。しかし正直言って多すぎるように感じるので、DLCが出るならそこで入手しやすくするか、ばっさり必要な数を減らしてほしい。現実的なのは前者か。

 経験値はレイドをやっていればけいけんアメが沢山手に入るため、それほど気にならない。

 

 以前は楽しいミニゲームを挟むことでその結果で個体値を変化させる仕組みとかどうよと思っていたが、いざ厳選がほぼ不要になったポケモンをプレイしてみると、これで正しいと信じられる。いかにミニゲームの質が高くとも、早く育成したい人からしたら面倒なだけだろう。

 やはり最強は公式なのだ(でもキャラデザの路線は考え直してほしいが)。

 

 完全シンボルエンカウントになったことで、図鑑埋めのモチベーションが上がった。

 画面を眺めるだけで「あ! あれ持ってない!」ということに気が付きやすいからだ。

 

 また、完全シンボルエンカウントの仕様になったことで、確率は変わっていなくても色違いが出やすく感じるようになったのだろう。

 ランダムエンカウントがあったころは、遭遇するまで色違いかどうか分からなかった。しかしレジェンズアルセウスと今作では遭遇する前から目で見て判断できる。

 そして画面上には無数のポケモンが登場しているのだから、体感上の確率が一匹一匹遭遇する必要があるころよりもずいぶん上がったはずだ。

 さらに言えば、貴重なスパイスを使うことでかがやきパワーという、色違いと遭遇しやすくなるパワーを付与することができるので、もはやそれほど情熱がなくとも色違いを捕まえることができるようになった。

 

 あえて不満を述べるなら、光るタイミングのおかげでアルセウスのころの方が取りこぼしが少ないように感じたが……。

 

 オープンワールドになったことでよりポケモンが面白くなった。

 DLCや次回作にも大きな期待を抱きつつ、ここで筆を置く。

内省と共感と~ゲンロン戦記を読んで~

 読み終わってからだいぶ間が空いてしまったが、東浩紀氏の「ゲンロン戦記」を読んだ感想をアップロードしておく。

 本当は俺も戦っているときに同じ思いを抱いていた(特に初期に俺みたいなやつがもっといればなあと思っていた)等の感想もあったのだが、その戦いは世間的に言うオカルトに当たるものなので割愛した。書くと東氏に迷惑かと思ったので……。

 以下は他の感想や批評と同じく、元の本、つまり「ゲンロン戦記」を読み終えてから読むことをお勧めする。でないとよくわからないはずだ。

 それでは、どうぞ。

 

 

(ページ数は失念した)

 実際に足を運ぶ小説の取材には誤配と観光がつきものだ。

 自分の住んでいる街の取材をするのでなければ、たいていは東さんの言う「「村人」でも「よそもの」でもない第三のカテゴリ」としての「取材者」になる。もちろん観光客そのものではないので異なる部分はあるのだろうが、今回は共通点を述べていきたい。

 現地に行く取材の場合でも観光客と同じように目的地は決まっている。事前に調べておおよその登場する施設や場所を決めていかなければ、時間がいくらあっても足りないからだ。しかし、それでも東さんの言う誤配と観光に近いものがある。

 現地の自販機やベンチの位置など細部を把握したり、路傍の花や石を見たり、道行く人々の層を理解したり、思わぬ店が近くにあったり……なんでもいいが、そういった偶然の出会いが刺激となったりきっかけとなったりして、発想が膨らんでいく。つまり誤配的発想(ひらめき)が、物語に思わぬ深みを与えてくれるのだ。

 観光客とは価値を感じる基準が違うが、取材者としての作家も取材対象に何らかの価値(=魅力)を感じなければ物語には登場させない。

 これらの点で、小説の取材は誤配と観光に通ずるものがある。

 コロナ禍の現地に行かないネット越しの取材をしていて感じたが、経路検索やグーグルストリートビューで現地の様子はおおよそつかめるものの、実際に行った時と比べて情報の解像度が低い。特に偶然の出会い(=誤配)がない。自分で見ようとしたものしか見られないのだ。情報もリアルタイムではないことがある。最低限の情報は手に入るので現地に行く取材の代替にできなくはないが、あえて言えば行った場合の劣化コピーの代替情報しか得られない。

 はやくコロナ禍が終わって欲しいものだ。

 

P147

 日本語でも検索ワードがわからなければそのことについて検索して学ぶことはできないという体験をしている。それどころか最近のネットは無料の不確かな情報であふれているので、たとえ検索ワードがわかっても間違った方向へ誘導されることが多くある(フェイクニュース陰謀論ポストトゥルース等)。だから最低でもプロの書いた(当然有料の)活字の本を読むことや、できれば詳しい人に直接会って教えていただくことが求められる。そうやって基礎ができた後で応用としてネットを使った方が良い。生兵法は怪我の元。

 

 東さんと私の意見は似てきていると思っているが、それは考え方が近いということを意味せず、おそらく政治や経済、SNSなどの社会の状況が良くなさすぎるからではないか。アプローチは異なると思っている。彼はリベラルで、私は自分では保守だと思っているからである。とはいえ、リベラルについて全く詳しくないものの、自由も大切だなと思ってはいる。

 

P259

「彼らの「見たいもの」そのものをどう変えるか。それが啓蒙なのです。」俺がずっと追い求め、別の言葉で考えていたことの答えを見た気がした。とはいえ、東さんの目指すところ(反スケール)と俺の目指すところ(大ヒット=スケール)とが違うので、本当の意図とは違うかもしれないが。

 世の中では「オタク要素を突き詰めればオタクに受ける、日本の人口の1%にウケれば100万部だからオタク向けを目指せ、一般受けを目指すな、そんなものは存在しない」というような創作論が広く出回っている。私はこの創作論自体は間違っていないとは思っている。ただ、完全な創作論など存在しない。その上で、付け加えるべき文章がある。

「しかし日本の人口全てに読書習慣があるわけでもない。仮に人口の1%=100万部が目標ならば、せめて一般人でも読めるような作りになっていなければならない。でなければ前提を達成できない。例えば専門用語を説明もなしに多用すれば一般人には読めなくなってしまう。つまり内容はオタク向け、だが構造や文章が一般人でも読めるようになっていることが望ましい」という文章だ。

 流行を作るような大ヒット作品は、流れを変える以上は目新しいものを持ってきている。その目新しいものは、作品を作っているくらいの人には(少なくとも部分的には)既知だろうし、詳しいという意味でのオタクにとっても同様だろう。

 だが、一般人にとってそれはまさしく新しいもの=知らないものであることが多い。

 それでも読んでもらえるということは、上記の「構造や文章が一般人でも読める」ことの証左である。

 そして、本の言葉に戻るならば、「構造や文章が一般人でも読めるようになっていること=啓蒙を達成するための一つの条件」となるのではないか。

 実際、この「ゲンロン戦記」そのものが、一般人でも読めるようになっている。

 一般人の見たいものを変えるほどの技巧と内容を持った作品が、大ヒットを出せる作品なのだと信じている。

 

P261

「哲学者は産婆」という言葉が出てくる。この本を読んでいて、自分も同じだったと振り返ったりしたのは、間違った読み方ではなく、むしろ哲学の本を読んでいるなら自然な行いなのだなと安心した。

 もっとも、この本のまえがきで批評の本でも哲学の本でもないと記されているので、「一読者の私は哲学の本だと思った」というだけに過ぎない。

 それに、そもそも読書とは内省の作業でもあるので、同じだったと思うのはその範囲であるのかもしれない。

 だが、私としては「哲学をわかりやすく伝えるための自伝」という風に読めたので、哲学の本だと評した。

 

 

 個人的に言論の評価とは言論人の人生・生き方を評価することなのだと思っている。過去と現在の言葉を比べて同じかどうかを見ることではない。何故なら、優れた言論人は変化・成長が前提であるからだ。

 その上でその個人の人生としての一貫性を評価するならば、誠実かどうかが焦点となる。

 言葉が逐一同じであるかどうかではない。逐一同じであったなら、変化も成長もしていないことになってしまうからだ。

 インターネット上では、よくイデオロギー固執しているだけの人々が、思想家を「ブレブレの人」などというが、実際はそういう人々が「頑迷な人」なだけである。

 私はこの本を読んで、ようやく東さんが信頼に足る誠実な思想家だと思えた。だから、積読していた他の東さんの本も読みたくなり、引っ張り出してきて、次に読む棚に並べたのであった。

新年あけましておめでとうございます

 新年あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 と言いつつ、もう一月が終わりますね。

 

 

 去年の一月に書いた抱負のうち、より面白い小説を書く! という目標は自分の中では達成しましたが、ブログ更新の方はあまりしなかった一年でした。

 

 というのも、たまに批評をしてもTwitterで済ませてしまうことが多いのです。

 最初のうちはこちらにも再編集版を載せていましたが、最近はそれもせず。

 まあ、Twitterで気楽に書いている程度のものを再編集してもしょうがない、という場合もあるのも事実なのですが。

 

 今年も前進の一年にしたいと思います。小説の合間に批評もやるかな。

 それでは、失礼いたします。

期待と評価――❝裏切られない❞ために

 ある有名で能力の高い方を(まったくもって完全ではないものの)追っていてわかったことを備忘録程度に書いておきます。

 

 人のある面を評価するとき、その面が良いにしろ悪いにしろ、そこだけを評価するべきです。

 優れている一つの面があるから、他の、あるいはすべての面でも優れているに違いない、などと思うのはお門違いだというわけです。

 逆もまた然り。


 その人はある能力がものすごく高いのですが、人間だからそうでない部分もあり、また能力以外の面ではダメな部分があったりもします。

 でも、だからといってある能力の評価が覆るわけでは、ありません。

 それが正当な評価というものでしょう。

 

 だから、よほどのことでない限り、「この人に絶対ついていく」とか思わない方がいいでしょう。

 いや私も思ったことありませんけれども。

 そこまでいかなくても、過剰な期待をすれば当然裏切られるわけです。

 過剰なんですから、現実とは当然ギャップがあります。

 「~~ついていく」ほどではなく、誰かの単なるファンでも相手に失望することがあるでしょう。程度の差はあれど、それと同じ構造です。

 

 前述のよほどがある人は、奇跡に見舞われた幸福な人だと思います。正直、うらやましい限りです。

 もっとも、ここに書いてあることを本当に実践できているのなら、ちょうどよくバランスをとって「この人に絶対ついていく」ということができる場合もあるでしょう。

 ついていく部分を限定するのかな。

 

 ただし、こんなこと言っておきながら、有名人で会ったこともない人で、一方的に情報で知っているだけの相手には、私もまだまだ期待をしがちです。

 こういう活動をしている人だから、優しいに違いない、とか。いい人だろう、とか。知らない相手なのに……。

 ただ今回書いたような前提があれば、現実を知って、その人の像を修正するときに比較的苦しまなくて済むというわけです。

「裏切られた」などということや、「失望した」などということが減るわけです。

 その方が幸福な人生を送れると思いませんか?

 

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

ブログのデザインを変えましたが……

 ブログのデザインを変えましたが、まだ試行錯誤中なので、また変える可能性は大いにあります。

 でもとりあえず今回の方が前よりも読みやすい気がします。

 可能なら、自分でデザインやってみたい気もするけど、時間とれるかなあ……。

 

 それでは。

 

 

 さつき