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変わり続ける命のカタチ~私がオバサンになっても~

 最近、ハマっている曲がある。

 

 それは「私がオバサンになっても」という名曲である。

 

 夢中になった発端は、有名Vtuber・宝鐘マリンが、3周年記念歌謡祭で風真いろはという他のVtuberとデュエットしているのを聴いたことだ。

 可愛く明るくカバーしている姿に、「Vtuberが寿命ある存在の悲哀と希望の歌をこんな風に歌い上げるのか!」と衝撃を受けた。

 ご存じの通り、Vtuberの姿が歳月とともに老化することは(基本的に)無い。

 その点で、老化と向き合い、付き合っていかなくてはならない寿命ある人間の宿命から、少しだけ逃れている。

 

 だが、ご存じ「私がオバサンになっても」は、オバサンになっても――つまり老化しても変わらず添い遂げてくれるのか、という問いかけを内包した歌である。

 実際、原曲の森高千里のシングル・ヴァージョンでは、切なげに歌い上げられている。花の命は短くて、若く綺麗で居られるのはごく限られた時間で、あなたはその後も変わらず付き合ってくれるのか、というわけだ。

 きっと他の方も言っておられると思うのだが、最後のサビ(という言い方で合ってるのだろうか?)で希望に転化し、そこが素晴らしいと私も思う。

(アルバム・ヴァージョンでは、比較的明るく歌い上げられており、どちらかと言えばマリンといろはバージョンに近い。推測だがせっかくのヴァージョン違いだから歌い方も変えたのだろうと思っている)

 

 思うに、マリンといろはがこの曲を可愛く明るく歌っているのは、Vtuberだからこそ、寿命ある人間の宿命から少しだけ逃れることができたからこそではないか。

(見た目上)オバサンになることが基本的に無い存在だから、その方が自分たちに合っているから、こうなった、というわけだ。

 

 しかし、仮に本当に完全に寿命の無い存在で、永遠の命があったとしても、年を経るごとに精神面の変化は当然ながらあるだろう。精神はオバサンになっていくだろう。

 そして実際には、Vtuberには永遠の命はない。思い出の中や、アーカイブの存在等で永遠と言えるかもしれないが、あえて嫌なことを言えば、現実には引退などする者もいるし、それでなくとも寿命と老化の宿命から逃れることができたのは外見という、一つの点だけである。

 だからか、この歌謡祭での歌唱バージョンでも切なさや希望への転化を感じ取ることができ、泣けるのである。

 


 この歌謡祭は他の曲も素晴らしいので、ぜひYoutubeで検索して聴いてみて欲しい。

 

 ところで、この歌謡祭、ライブ音源的な感じで、曲ごとに売り出してもらえたらすごく嬉しいんだよね……あるいは、まるごとDVDで販売でもいい。いや、動画のダウンロード販売でもいいから……とにかく手元に置いておきたい。

 それだけ夢中になった歌謡祭だった。

 強くオススメしておく!