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復活! サブカルをメインに批評・考察・提案するブログです。

作家性=毒についての一考察

 私の落ちた原稿から読み取った欠点は数多くあるが、今回はその中の一つを語る。

 それは、「作家性=毒」の多さ、である。

 

 私は、作家性=作家の(自然体での)語りたいこと、であると思っている。

 それの何が毒なのか? と思われる方もいるだろうから説明する。

 自然体の作家の書きたいこと、語りたいことというのは、その作家の抱えている思いや特別な好みから生まれるものである。

 対して、こうすれば売れるだろうというような工夫や発想の前提によって加工された作家性は、自然体の語りたいことではないわけだ。

 話を戻す。

 しかしそれをそのまま原稿にしてしまうと、その作家にとっては面白いのだが、他人にとっては理解しがたかったり、面白くなかったり、することが多くある。

 たまたま多くの他人にも受け入れてもらえる作家性であればいいが、たいていはそうではないということだ。

 偏っているからだ。

 それは娯楽小説にとっては毒だ。

 商業(あるいは商業を目指した)娯楽小説とは他人のために書くものであり、自分のためだけに書かれたようなものではないのである。

 

 例を挙げよう。

 

 私はつらい目にあい続けた半生を送っている。

 ストーカーまがいのキモ男による被害、

 誹謗中傷、

 いじめ、

 根も葉もないうわさ、

 はたまた呪い(呪うって言われた)、

 治らない病気……

 等を体験した俺ではあるが、これらへの思いを一つの作品にぶち込んで面白くなると思えるだろうか?

 多すぎるとは思えないか? 一つで十分ではないか?

 

 私のような人が創作に向き合う時、作家性を一つに絞って、かつ面白いように薄められればいいが、そうもいかない場合がある。

 抱えている思いが、多すぎるのだ。

 それに対し、慣れないうちは書く量が少ない。出口が少ない。

 そこであれもこれもと入れすぎてしまうのだ。

 そうすると、とっ散らかったり、何が言いたいのかわからなくなったりして、面白くなくなる。

 

 これを避けるには、つらい作業ではあるだろうが、自分の吐き出したい毒を思い出してメモするようにして、作品に込める毒を、その全てではなく、ちょうどいい塩梅まで減らすという方法もある。

 またそのメモとネタを照らし合わせて、このネタはこのメモの毒Aからきている、というような作業をし、客観的に見直すという方法もよさそうだ。

 あるいはその発展形として、複数のネタを同時に抱え、書くのは一つずつであっても、その一つ一つに毒を散らす、などが考えられる。

 

 別にここまで不幸でなくても、人間生きていれば吐き出したい毒は溜まっていくものだ。

 だから、他人事と思わず、自分のネタや作品を、見直してみてほしい。

 

 毒が多すぎや、しないか?

 

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

 

才能を発揮するには――「できる」と「できない」

 皆さんは、自身の才能を把握しているだろうか。

 答えは様々だろう。

 だが、そもそも、人は自身の才能を把握することなど、可能なのだろうか?

 

 挑戦してみて、成果が出れば、その成果分は才能があったことになる。

 だから、すでに大成功している人は、自信をもって自分には才能があると言えることだろう。

 しかし、まだ挑戦していない時点でも、才能がある可能性は存在するはずではないのか。また、成果が出ない場合でも、その後花開く可能性がある以上、才能がないとは言い切れない。

 このように、才能というのは、把握できる場合が限られているものなのだ。

 

 だからこそ、何かをする際は「できる」と思って事に当たった方がいい。

 「できる」と思っていると、実際に「できる」場合や、「できるようになる」場合があるものなのだ。

 反対に、「できない」と思って事に当たると、失敗し、成果が出ないことが多い。そのうえ、本当はできたはずのことが、できなくなる事すらある。

 

 

 思うに、個人の何らかの実力というのは、「体に染みついた、意識しなくても行える能力」と「無自覚に身についている、自分にとっては未知数の能力」の二つが合わさったものであり、後者には才能も含まれる。

 そして、後者は無自覚で未知数だからこそ、「できない」と思っていると、発揮されなくなってしまうのである。

 人はだれしも、自らの精神状態の影響を受ける。ならば、「できる」と思っていれば調子がよくなり、「できない」と思っていると調子が悪くなるのは、当然ではないのか。

「できない」という呪いじみた思考を自らに施すのは、やめた方がいい。

 やってみたら、できるかもしれない。いや、できる! と思って挑戦を繰り返した方がいい。

 

 思い出してみてほしい。子供のころや若いころに挑戦する場合は、未知数の自分込みで挑戦するのが当然な場合が多く、だからこそ、才能を試すことができることも多かったのではないか。

 だが歳を重ねると、自分のことを分かったつもりになってしまう。未知数の自分などいない気になるのだ。だから、才能を試せない。本当は才能はあるかもしれないのに……。非常に、もったいない話だ。

 自分のことを本当に把握できている人間など、ほとんどいない。必ず、未知数の部分がある。だから、わかったつもりという呪いじみた思考からは脱するべきだ。

 そして、歳をとっていないにも関わらず、呪いじみた思考にはまり、才能を試せない人もいる。

 そういう時は、自分自身を疑ってみることだ。呪いじみた思考を解く第一歩となることだろう。

 

 才能を発揮するには、「できる」と思って挑戦することが、肝要なのである。

 

 

 

 もちろんこの記事は、慢心することや、危険なことに飛び込むことを推奨しているわけではない。

 そういったことは前提として、共有しているものと思って記事を書いたが、そうでない場合もあるだろうと思ったので、最後に注意事項として書き加えておく。

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

日常系にスリルがある場合の面白さ――「けいおん!」と「女装コスプレイヤーと弟」、「ひげを剃る。そして女子高生を拾う。」

 いわゆる、日常系と呼ばれる作品に、スリルがあると面白い、と言うことについて語っていきたい。

 

 日常系にスリル、と言うと「そんなもんあるわけねーだろ。起伏のない作品が日常系だ」と言われるかもしれない。

 確かに、劇的な方向の作品に含まれるスリルをそのまま持ってきたら、大失敗だ。刺激が強すぎる。お汁粉に塩をドバドバ入れるようなもので、作り方を間違えている。

 しかし、甘いだけと思われがちなお汁粉だが、作る際、塩を一つまみ入れると甘さが引き立つということを知っているだろうか。ここで論じていくのは、この「塩一つまみ分のスリル」のことである。

 さらに言えば「起伏はある」のである。

 どういうことなのか、語って行こう。

 

 

 まず、アニメ版けいおん! は、主人公に平沢唯という、抜けたところのある女子高生を置いている。このことは、第一話の冒頭で、時間をうっかり間違えるというエピソードでもそれとなく示されている。

 この「抜けている」という要素が、話全体をいい方向に引き締めているのである。部活をなかなか決められなかったり、テストで赤点を取ったり、歌詞を忘れたり、ギターのメンテをしていなかったり、風邪を引いたりと、これらの「平和なアクシデント」がなければ、作品は文字通り起伏が無くなり、相手にされなかっただろう。

 そう、日常系では日常系なりの平和なアクシデントが必要な場合があり、この「アクシデント」を言い換えると「スリル」になるのである。

 抜けたところのある唯が、果たして平穏無事に高校生活を送れるのだろうか? という形での「スリル」である。

 この場合は、主人公に「スリル」を内包させている形となる。

 

 同じように主人公にスリルを内包させている名作として、「女装コスプレイヤーと弟」という名前で商業出版されている漫画がある。個人的に日常系に分類させていただいている。

「という名前で」……? そう、この作品はTwitterやpixivにおいて、多少違う名前で、無料連載されている漫画なのである。

 それはさておき、この作品での主人公は女装コスプレ趣味を持っている。その趣味を親の再婚でできたフランス出身の弟に見られ、一目ぼれされた上、なんやかんやで正体を隠しながら女装コスプレ状態でも接していくことになってしまう……という筋書きになっている。

 この場合、「抜けたところがある」ではなく、(女装コスプレとその正体を隠す)「秘密を抱えている」という形で、「スリル」を作り出していることになる。

 このスリルが、作品を読む際にちょうどいいスパイスになる。

 「主人公にスリルを内包させている」というところまで抽象度を上げていくと、同じではあるのだが、ではどのようなスリルなのかというところまで抽象度を下げると、異なるものが見えてくる。

 

「秘密を抱えている」というスリルとしては、「ひげを剃る。そして女子高生を拾う。」という小説も存在する。「カクヨム」という投稿サイトで人気を博したのち、商業出版もされた作品だ。

 この作品は、サラリーマンの主人公が、事情を抱えていそうな家出女子高生と出会い、なんやかんやで家に保護して同居生活を始める、と言うものだ。

 この場合は、「家出女子高生を匿う」という一種危険な秘密を抱えつつ、会社に勤め、ラブコメディが展開されていくことになる。

 初めて読んだ時、「そうか、この手があったか!」と唸ってしまったものだ。

 もちろん、メインとしてはスリルを味わう話ではなく、ラブコメディを楽しむものだろうが、このスリルも重要な側面として立ち上がってくるわけだ。

 

 例を挙げるのはこのくらいにしておこう。

 もう十分に伝わったかと思うが、「日常系の作劇方法として、平和なスリルを入れる場合がある」そして「その方が面白くなる場合がある」ことを繰り返しておく。

 そうすることによって、話がほどよく引き締まり、かえって面白くなるのだ。「お汁粉の一つまみ分の塩創作論」とでもしておく。

 

 なお、この批評は面白さについて語ってはいるが、これらの作品の面白さはここに書いてあるだけのものではないことを断っておく。

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

新年あけましておめでとうございます。

 あけましておめでとうございます。

 さつきです。

 

 実は特に書くこともないのですが、新年のあいさつくらいここでもしておこうかと思い立ち、ブラウザを開きました。

 

 今年の抱負は「前作より面白い小説を書く!」になります。

 批評じゃねーのかよ! と思った方もいらっしゃるでしょうが、ここがはてなダイアリーだったころから、私にとって批評は二番目以降なので……。すみません。

 一応、批評の方の抱負も書いておくと、「一月に一度くらいのペースで更新……できたらいいな」という感じです。

 

 映画や本に類するものならまだしも、テレビゲームの批評はめっちゃ時間かかるんで今後減るかも。というか、すでに減ってるかも。

 

 それでは、また。

今年も一年ありがとうございました。

 来年はもう少し多く記事を書ければいいなあと思いつつ、できるかどうかは未知数なさつきです。

 皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

 

 夏に入るくらいまではまだ調子がましだったのですが、夏からこっち、様々なことに影響の出るスランプ(?)に陥ってまして、まだ完全には払拭できていません。

 ここの記事は、短い時間で書けるのでそこそこ書いていましたが……。

 がむしゃらにやればいいってもんでもありませんね。ちゃんと問題と向き合って何とかしていかないと、と。頭では、わかっているんですけどねー。

 そんなわけで、本業にしたく思っている小説も含め、今年は停滞の一年となりました。

 来年は再起動、活躍の一年にしたく思っているので、まあ、まずはいろんなところで手を動かすしかありませんね。

 

 それでは、よいお年を!

時代ごとの表現――ラブひなとけいおん!

 漫画作品のラブひなと、アニメ版のけいおん! のネタバレ注意!

 

 発表された時代の違う二つの作品について論じていきたい。

 

 まず、ラブひなの主人公の男子浪人生・浦島景太郎が管理人として暮らしていくことになる女子寮のひなた荘は温泉付きの珍しい物件である。

 この温泉はキャラクターだけでなく読者にとっても癒しの象徴になっているものと思われる。これはあえて語る必要のあることではないかもしれないが、温泉につかれば人は癒されるというわけで、直接的に癒しを描いていると言える。

 ある種桃源郷のような、温泉付きの素敵な寮で女の子に囲まれつつ癒され、その結果成功していくという物語である。

 

 観客が癒されるという意味では、カタルシスがあれば癒されるわけではあるが、ここで語っているのは狭義の、内容自体が癒される系統の物語ということになる。

 

 次に、けいおん! の主な舞台である桜高軽音部のある桜が丘高校は、校舎自体はヴォーリズ建築の白亜の殿堂・豊郷小学校旧校舎群をモデルにしていることから素敵ではあるが、特に――温泉のような――癒しの象徴があるわけではない。

 しかしけいおん! の少なくない視聴者が癒されているであろうことは想像できる。私もその癒された一人だ。その上、桜高軽音部に対して桃源郷のようなイメージを持っているのではないか? ……物質的な癒しの象徴はないにも関わらず。

 では、なぜ癒され、そうイメージするのだろうか?

 それは、キャラクター間の人間関係がゆるやかふんわり楽しく一種美しくすらあるからではないだろうか。

 癒しの象徴はないにせよ、癒される空間というものが存在しており、それはキャラクターたちの人間関係から生まれているのでは? また、ひいては人間関係を生み出すキャラクターそれぞれの造形からも来ているのでは? ということだ。

 

 ジャンルや表現の違いはあれど、本質的にはラブひなと同じような、癒しの空間で過ごした結果成功するという物語構造になっているように見受けられる。

 主人公の平沢唯はゆるふわな日常を送りながら、軽音部の文化祭での発表を成功させるという成功体験を積む。

 だが唯自身は癒す必要のある状態にあるわけではない。前述の浦島景太郎が大学受験で二浪もしているのに対して、平沢唯は大きな不幸を持っているわけではない。だから、癒される空間で過ごしはするのだが、そこまで大きく癒されているというわけではない。

 これはけいおん! という物語が、「幸せなキャラクターたちを眺める」物語にもされているが故ではないか。

 癒されるべきキャラクターを主人公にした場合、その内包する悲劇性が、観客に対してストレスを与える。比較的ドラマチックな作品(けいおんと比較するとラブひなはドラマチックである)ならばそれでいいし、そうしたほうがいいのだが、日常系では足かせだ。日常系では、ゆるやかふんわり幸せなキャラクターを主人公に据えるのが一つの解答である、というわけだ。

 そしてけいおんの視聴者が癒されているであろうことも先に述べたとおりである。つまり、けいおんは、主人公が癒されるのではなく観客が癒される方向へ特化している物語になっているのである。

 ラブひなのころと比べて、さらにというか、ストレスや貧困、格差などが大きくなり広がった社会だったからこそ、現実社会でただでさえ苦しく、ストレスを感じているのに、創作の中でまでストレスを感じたくない、という視聴者の思いもあったのではないか。

 

 と言っても、どちらが優れているという話ではない。

 この二つの作品は、同じような要素を、時代に合わせて違う物語構造で観客に届けているという話である。

 けいおん! の方が特化していると聞くと、こちらの方が優れているように聞こえるかもしれないが、異なる時代を生きているそれぞれの観客に合わせて、それぞれの作品が別々に成立しているというだけのことだ。

 そもそも、ラブひなの連載された時代にけいおん! のような企画が果たして通ったのか、通ったとして売れたかについては疑問が残る。

 先進的すぎると観客が付いていけなくなってしまうものだ。

 

 ……しかし、だからと言って、この批評ではまだ、時代のとらえ方を説明するには至れない。

 それがもしできたらヒットする作品を次々に送り出せることになる。

 そんなことはまだまだ難しいだろう。

 

 

 時代をとらえた大ヒット作品たち、そしてその作者たちに敬意を表して。

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

有益な創作論とは――キーワードは“自分自身”

 創作論は、それを語る人にとってできて当然のことは軽視されている場合があって、そのせいでほとんど述べられていない重要な何かがある場合がある。これはプロの創作論の本でもそうである。

 

 例えば、「キャラ設定を作る時に詳細な履歴書のようなものをきっちり作れ」と――履歴書の中身はそれぞれ多少違えども――様々な創作論においてよく言われる。

 だが、それはあくまで、「面白い」設定を作るという大前提の下に行われるべきことで、単純作業のように穴埋めをして詳細な履歴書を作っても、娯楽としての質は上がらない。「面白さ」という大前提は、これ以外のすべてにも当てはまることなのだが、そう書いていない創作論は多い。

 他に、キャラ設定と双璧をなす重要な創作論としては、ストーリーがある。

 起承転結、序破急、ヒーローズ・ジャーニーなど、型になる創作論は数多くあるが、それらはすべて、面白いストーリーを作ろうという意識の下で活用されないと、単なるやけっぱちの空欄埋めに終始し、どうでもいい、類型的なだけのくだらないストーリーが生産されてしまう。

 

 娯楽小説を書くのだから、「面白いことが大前提」なのは当然ではあるし、プロとして活躍できている方がそれをわざわざ意識しなくてもできるというのも想像に難くない。 しかしいまいち面白くない小説を書いてしまうアマチュアは、それを大前提にし忘れている気がしてならない。

 

 ここからは、どうしたら創作論を役立てていけるのか、それを具体的に述べていこう。

 面白さを意識することが大切なのは、すでに述べた。

 しかし、例えば、作品作りにおいて全体として面白さの方向性を守ることが重要なのに対して、細部に別々の面白さばかりを配置すると、てんでんバラバラな面白さをごちゃまぜにした意味不明な作品が出来上がってしまう。これは「面白さ最優先主義」ともいえる創作論の穴である。

 だが、誰しもがそんな間違った解釈をしてしまうわけでもない。

 つまり、ある有益だとされる創作論が、大勢にとっては有益だとしても、一部の人にとっては解釈の問題で役に立たなかったり、それどころか逆に毒になったりするわけである。問題は、自分が大勢なのか、一部なのかは、すぐにはわからないということだ。

 では、いったい、どうしたらいいのか?

 それは自分自身の創作における、取捨選択と、創造である。

 有益なのか、無意味なのか、毒なのかを判断するには、作品を作ってみないとわからない。だから「創作における」と書いた。

 そしてまず、最初に述べた個々人におけるすでにできていることは、創作論として取り入れる必要がない。また、毒になるようなものは、取り入れてはいけない。これが取捨選択である。

 次に、創造であるが、これは自ら創作論を作り出す行為を指す。ゼロから作れとは言わない。他者の創作論を実践するうちに、自分にとってはこうした方があっているという微細な変化や、あるいは創作論を基にするのではなく、何らかの創作作品群を分析し、自ら発見する法則や、面白いポイントなどを抽象度を上げてとらえ、創作論と化すのだ。

 重要なのは、自分の責任において、自分で試行錯誤しながら、自分に合った創作論を自分で作り上げていくことだ。

 なぜそんな一見面倒なことを勧めるのか?

 それは、この世界に、自分にとって最良の創作論など存在しないからである――自分で作り上げた場合を除いて。

 残酷なようだが、奇跡のような、これさえ守ればデビューできるとか、ヒットできるとか、そういった類の創作論は存在しない。それを謳う創作論は数多くあれど、それは商売用のキャッチ・コピーに過ぎない。

 なぜなら、世にあふれた創作論は、あなたのために書かれた創作論ではないし、書いたのもただの人間で、神ではないからだ。

 それに近いものがもし存在するとしても、あなたが血反吐を吐いてたどり着く将来の自分自身の創作論以外にはないのである。

 

 この創作論も含めて、取捨選択し、創造し、力強く創作の道を歩いて行ってほしい。

 私はそうするつもりなので、もしあなたがそうするのであれば、どこかで会うこともあるかもしれない。

 

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。