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復活! サブカルをメインに批評・考察・提案するブログです。

平沢唯の命題

大塚英志さんの「アトムの命題」をヒントに思いついたような記事です。
ネタばれ注意!




大塚さんの「アトムの命題」を大雑把に説明しますと、アトムは、成長しない機械の体と成長する心という矛盾しあう二つを抱えた存在である、というものです。
何故そんなことになったのか、など、詳しいところを知りたい方は大塚さんの著書を読んでみてください。大変参考になります。


では、今回の記事の本題へ移りましょう。
けいおん! およびけいおん!! のキャラクター、平沢唯は新しいモデルの萌えキャラクターモデルの先駆けだと考えられます。
どういうモデルかというと、オタクたちの欲望を受け流し、また吸収してくれる常に清浄な存在というモデルです。
なぜそんな機能があると考えられるのかを説明しましょう。


まず、アニメけいおんのキャラクターは、顔は原作よりの目の大きな童顔、いわゆる萌えキャラのような顔をしていますが、肉体はそうではありません。
現実ではありえないような痩身による「美化」ではないこともそうですが、それ以上に描かれ方が違います。
最近の萌えアニメにおける美化手法の流行は、たとえ現実には性的魅力の乏しい幼児体型であっても、アニメに登場する場合は肉感的なタッチや色使い、また誇張などを駆使して大変色っぽく描く手法だと感じます。ぱにぽにだっしゅ! のレベッカ宮本あたりはわかりやすい例ではないでしょうか。
しかしけいおんでは、そうはしません。現実にいる女子高生の平均のような腰や足の太さが観られます。顕著なのが、けいおん!! でのスクール水着を部室で着た回です。
制服や私服などを着ている際は、制服や私服そのものが持つフェチズムに隠されて、肉体の持つ現実性が見事に隠れていますが、よくよく見れば体型は、極端な美化はされていないのがわかります。
彼女たちは、性的な美化という誇張を、比較的されていません。
しかし、むしろ現実によった肉体は、私たち自身のリアルな性的欲求を思い起こさせます。湧き上がるわけではないのが重要です。


しかし、唯の内面はどうかといえば、萌えキャラとしてのデフォルメは、極端ではないものの十分にされています。
萌えは萌えでも、性的でない萌えデフォルメは十分にあります。
負の感情が無いわけではありませんがあまり表に出ず、でてもすぐに解決したり、あるいは演出で可愛く見せていたり。
従来の萌えキャラの特徴のうち、この作品で必要な部分は受け継いでいるとも言えるでしょう。
そういった内面を象徴するように、顔も従来の萌えキャラの特徴を持っているわけです。
現実で、性格が一番出るのが顔であるように。


つまり、けいおんの唯は、「従来のアニメキャラの適した部分を受け継いだ、(一部)アニメ的な内面」と「現実に寄った、リアルな体」を同時に持つということになります。
これはちょうど、アトムの命題の反対になります。


誇張されていない体を持つことによって、そこへ向けられる観客の性的な欲望から、「誇張されている、つまり体とある意味切り離された」内面は、逃れることができるのです。
もし、誇張された体と同時に誇張された内面を持ったキャラクターだったら、観客は、向けた欲情が、体を通してキャラの内面をも汚したように感じることができます。
そのほうが興奮するのかもしれません――ですが、観客の持つイメージは汚された状態を保ってしまいます。
妄想しなければ持つことも無かったはずの、アニメ本編のイメージを歪ませたイメージを持ってしまうというわけです。
インパクトのある二次創作を見てしまった所為で、本家のアニメ映像すら同じように見えてきた――ということは無いでしょうか?
初音ミクがネギを持つようになった経緯を考えていただいても、わかりやすいかと思います。


けいおんキャラクターは、観客に妄想をさせないわけではありません。しかし、妄想、二次創作からの逆輸入的なイメージをシャットアウト、あるいはリセットすることができるのです。
性的な欲求をぶつけるとき、リアルを基準にした妄想では、やはり実際に見たり触ったりできる肉体のほうにぶつけるイメージをしやすい。そのとき、けいおんキャラクターは現実味のある体を持っているので、まず体で受け止めます。連想しやすいからです。しかし観客のイメージ上で、無意識のうちに肉体と切り離されたそのアニメ的な内面は、そこから連想しにくいものになっています。ですから、そこまで性的な欲望をぶつけたというイメージが及ばないのです。
そしてキャラクターの本質は、体ではなく内面になりますので、いざ妄想が終わってみると、不思議と彼女らへのイメージは、汚されていない、きれいなままになります。
だから、けいおんキャラクターは、性的な欲求をぶつけられても、受け流すか、あるいは吸収、消化するように、無効化できるというわけです。
見も蓋も無い言い方をすれば、オナニーの対象にしても不思議と穢れない、あるいはオナニーの対象にしようとすると、何もしないうちから不思議と性的欲求が静まってしまうということになります(男は物理的に溜まっているので、だからといって絶対に抜けないというようなことは無いのですが)。
つまり、我々観客が、たとえば初音ミクのネギのようにキャラクターに付加してしまうもの、想像や妄想は、リアル属性のビジュアルと統合され、処理される。けれど、平沢唯の本質はリアル属性ではなく、虚構、アニメ的な面に属している。だから観客の想像や妄想の矛先は、本質へはむかわない。よって、平沢唯はネギを持つには至らないのです。
だから、本質としてのイメージは汚ることのない、新しいキャラクターモデルである、という結論になります。



観客は、アニメ本編を見直すと、また新鮮な、どこか清浄な気持ちで観賞することができるというわけです。
この清浄さを保つ機能があることによって、けいおんキャラクターは共感もしやすいのです。
もちろん、そういう機能にも限度はあります。しかしそれは「アトムは所詮アニメにしか見えない」と言う人がいるのと同じようなものです。


今回、けいおんの命題とは言わずに、あえて唯と言ったのは、ゆるふわ系と言うイメージを一番持っている唯が、そういう欲求を受け流す、自浄作用を持った聖処女のイメージに合致していると思えたからですが、これはひょっとするとただの好みなのかもしれませんね。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。