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贋作地獄を超えるとき――面白さの多様性

 名作に衝撃を受けたあまり名作の劣化コピー……贋作を作り続ける地獄にハマった場合、そこから抜け出すには本物を超えることが必要だ。

 若いころ、「イリヤの空、UFOの夏」という名作にドはまりした結果、それと同じ味の作品を探し求めた時期がある。最も近かったのは同じ作者による「猫の地球儀」だっただろうか。

 問題は、その名作と違う味の作品に出合うと、違うという理由でつまらないと感じることがあったのだろうということだ。同じ味を期待しているというバイアスが、物語への味覚を鈍らせていたのだ。つまり、ライトノベルとしては重厚で味わい深い文体の「秋山節(注・この作品の作者は秋山瑞人)」に惚れこむあまり、ライトノベルらしい短い文章の連続の文体などを軽視していた。

 しかし面白さを感じる味覚は、とある名作と同じ方向性だけをはかるためのものではない。個々の作品ごとに異なる方向性の面白さの味がある。もちろん、それをわかっていなかったわけではなかった。だが、完全にその理想を体現していたわけでもなかった。例えば「ゼロの使い魔」である。今読めば傑作だと認識するし、売れに売れている……それだけの評価を得ている作品だ。しかし当時の私は「そこそこ面白い」としか思わなかった。

 好みが変わったと言えばそれまでだが、当人である私にはそれだけではないと言い切れる実感がある。つまり「ゼロの使い魔」などの短文を連発する文体の味を十分に味わえていなかった実感がある。

 重要なのは、個々の作品の別々の面白さという味をそれぞれ十分に味わうことである。具体的には、先入観を捨て、素直に読むことが大切となる。あれと似てるとか、これと同じような感動を期待するとかは、いったん捨てておきたい。

 むろん完璧にそれを実践することが絶対的に正しいわけではない。例えばパロディ的な作品を見たりすれば、どうしたって別の、パロディ元の作品を想起するが、それは間違っているわけではない。含まれている以上、その想起もその作品の味わいの中のものである。

 こうした名作の衝撃から同じ味を求め続けてしまう病いは、創作活動にも悪影響を与えることがある。

 それが最初に語った、贋作の量産という悪夢である。同じ味を求めるとはいえ、全く同じものを作るわけにはいかず、パクリをするわけにもいかないからだ。これが本当に料理だったら、同じ名店の同じメニューを食べればいいだけなのだが、悲しいかな、読書の場合、それはあまり通用しない。内容を覚えているからだ。この辺りは読書家ならわかることだろう。それがわかっているからこそ、自分でも書くのだが、贋作を作っている間は本物と同じ味になることはない。この場合、まったく同じ文章を書くこと……つまり「写経」をしても意味がないからだ。

 どうしてもこの病いが治癒しないのであれば、その名作の……本物の味を自分にとって超える方向に舵をきれば良い。そうすると、結局同じ味ではなくなるのだが、自分にとってもっとおいしい味になっているから、満足するというわけだ。

 そこからオリジナリティも生まれるだろう。

 

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。