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ヒーローに死なれた少年達――ポストモダンという病理

ネタバレ注意!


週刊少年ジャンプにて連載中の「バクマン。」を分析して、そこから社会に足を突っ込んで、ポストモダンについて論じてみようと思います。




サイコーとシュージンは、ある共通したバックボーンを持っています。
それは、本人達にとってヒーローだったものが権威を失墜させられるさまを、幼少期に見てきていることです。


サイコーの場合は憧れのおじさん「川口たろう」が漫画で人気が取れずに過労死してしまいますし、シュ−ジンは実父が責任を押し付けられて会社を首にされてしまいます。
サイコーは、シュージンに導かれるまでは、夢を持たず、冷め切った視線で生きる中学生という、なかなかに病んだ存在でした。
シュージンは野望や夢はあるものの、それは「漫画家」という安定性に著しく欠ける職業です。さらに、効率的とはいえ、それまでの自分自身と努力を投げ捨てるかのように、進学先をサイコーと同じ低学歴コースに決め、漫画だけに集中するさまは、会社を首にされた実父の半生をトレースしているようにも思えます。


努力をしてきたヒーローが、いとも簡単にすべてを無くすという光景を、子供のころから見てきた彼ら。
これは、道徳や正義が裏切られるさまを見てきているようなものです。
今まで見てきたものを参考に漫画を描くという意味では、なるほど、彼らが邪道モノに適していることにも納得がいきます。


私には彼らが、大きな物語を失った社会に巻き込まれたように見えます。
つまり、いわゆるポストモダンに巻き込まれたように見えてならないのです。
ポストモダンという言葉は、近代以降、近代の次、という意味になります。
しかしこのポストモダンを論じるときに「次」「新しい」という言葉を言いわけに使って、失ってはならないものを自ら捨てている人々がいるように見えるのです。
いわゆるアカ、左翼的な人間は、それまでの伝統や価値観を「古い」「近代以前」の名の下に投げ捨てられるわけですから、都合が良いのかもしれませんが、捨ててはならないものがあったはずなのです。


現状を区別する言葉として、ポストモダンという言葉を使うならわかりますが、それが望ましいかどうかをごまかして、喧伝するのは、卑怯です。
大きな物語が失われて小さな物語が乱立した、そういう分析をするのはいいでしょう。現実は把握しなければなりません。しかし状況はそのままでいいのでしょうか?


「これがゲンジツだ!」と叫ぶ人がいます。現実をわかっていない者への叱責なら、これもわかります。
しかし、コネや利権、自分の実力でないものに胡坐をかいている人が、隠しきれない自信と共に吐き出す様のほうが、より目に付きます。
現実におきたことなら、何でもいいのでしょうか? 
本当の大人というのは、現実の正体がわかったら、そこからより良くしていこうと努力する存在なのだと、僕は信じていたいのです。
守るべきは、我々年長者が子供に示せる理想です。自分にとって都合のいいだけの現実ではありません。


誤解を未然に防ぐために、ここで私のエンタメ、とりわけサブカルに対しての理想を述べておきます。
たとえば今、エンターテイメントは非常に多様です。
私はこの多様性を無くせと言っているわけではありません。


業界をある不思議な木にたとえるなら、私は、木がより多くの果実を身につけるように育つ形で多様性を見につけるのが、本来は一番いいとおもいます。
それに対して、幹や枝、樹木本体を破壊して、どこからか持ってきたらしい果実や、あるいは果実の型を取ってセメントや樹脂でつくった物を、その辺にたくさん転がしておくのが、そこかしこで提唱されている、いわゆるポストモダン
しかし、それで本当にいいのでしょうか?


もちろん、実際の現実では、まだ、樹木本体は破壊されてしまったわけではありません。
しかし、樹木本体を隠そうとする輩がいたり、あるいは自分の枝を折ってしまったりする輩がいますし、またあるいは、実際にどうにかして木を倒そうと、つめで引っかくような者もいるように思います。
これらには、対処をしていかなければなりません。


生まれてしまった多様性を潰す必要はそれほどありませんし、時間を巻き戻すこともかなわないなら、今の状況を利用して、理想的な状況へ持っていくべきだと考えます。
そこら辺に転がしてしまった果実は、樹木の栄養になりますし、あるいは芽を出し、共生木になりうるかもしれません。
セメントの果実は、今までの記録をとるのに使えるかもしれません。


非常に大規模な多様性が生まれるのは、正常な進化をするならもっと後だったと考えます。
しかし正常でなかったからといって、全てをあきらめるにはまだ早いでしょう。
私はポストモダンが嫌いですが、しかしポストモダン以前に時間を巻き戻そうというのではなく、新たに理想を取り戻すべきだと主張致します。
つまり、生まれてしまった、何かが欠けた多様性に、後から、大事なものを補足する、ということになります。


我流の変な癖がついた人が、後から王道を学ぶようなものです。
つらくはあるでしょうが、無理ではないでしょう。


それでは、今回はここまでとさせていただきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。